・・・ただ蔵経はかなり豊富だったので、彼は猛烈な勉強心を起こして、三七日の断食して誓願を立て、人並みすぐれて母思いの彼が訪ね来た母をも逢わずにかえし、あまりの精励のためについに血を吐いたほどであった。 十六歳のとき清澄山を下って鎌倉に遊学した・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・「海苔一ふくろ送り給ひ畢んぬ。……峰に上りてわかめや生ひたると見候へば、さにてはなくて蕨のみ並び立ちたり。谷に下りて、あまのりや生ひたると尋ぬれば、あやまりてや見るらん、芹のみ茂りふしたり。古郷の事、はるかに思ひ忘れて候ひつるに、今此の・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ 空腹のとき、肉や刺身を食うと、それが直ちに、自分の血となり肉となるような感じがする。読んでそういう感じを覚える作家や、本は滅多にないものだ。 僕にとって、トルストイが肥料だった。が、トルストイは、あまりに豊富すぎる肥料で、かえって・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・ 河を乗り起してやってくる馬橇が見えた。警戒兵としての経験からくるある直感で、ワーシカは、すぐ、労働組合の労働者ではなく、密輸入者の橇であると神経に感じた。銃をとると、彼は扉を押して、戸外へ躍りでた。扉が開いたその瞬間に、刺すような寒気・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・若崎は徹底してオダテとモッコには乗りたくないと平常思っている。客のこの言葉を聞くとブルッとするほど厭だった。ウソにいじりまわされている芸術ほどケチなものは無いと思っているからである。で、思わず知らず鼻のさきで笑うような調子に、「腕なんぞ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・骨董が重んぜられ、骨董蒐集が行われるお蔭で、世界の文明史が血肉を具し脈絡が知れるに至るのであり、今までの光輝がわが曹の頭上にかがやき、香気が我らの胸に逼って、そして今人をして古文明を味わわしめ、それからまた古人とは異なった文明を開拓させるに・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・半纒が破れて、額や頬から血が出ていた。その血が土にまみれて、どす黒くなっている。 皆は何んにも言わないで、また歩きだした。(体を悪くしていた源吉は死ぬ前にどうしても、青森に残してきた母親に一度会いたいとよくそう言っていた。二十三・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・島に生れて論が合わぬの議が合わぬのと江戸の伯母御を京で尋ねたでもあるまいものが、あわぬ詮索に日を消すより極楽は瞼の合うた一時とその能とするところは呑むなり酔うなり眠るなり自堕落は馴れるに早くいつまでも血気熾んとわれから信用を剥いで除けたまま・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・悦気面に満ちて四百五百と入り揚げたトドの詰りを秋子は見届けしからば御免と山水と申す長者のもとへ一応の照会もなく引き取られしより俊雄は瓦斯を離れた風船乗り天を仰いで吹っかける冷酒五臓六腑へ浸み渡りたり それつらつらいろは四十七文字を按ずる・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・若々しい血潮は見る見る次郎の顔に上った。堅く組んだ手も震えた。私はまたハラハラしながらそれを見ていた。「オヽ、痛い。御覧なさいな、私の手はこんなに紅くなっちゃったこと。」 と、お徳は血でもにじむかと見えるほど紅く熱した腕をさすった。・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫