・・・「ははあ、それは思いもよりませんな。」 忠左衛門は、けげんな顔をして、藤左衛門を見た。相手は、この話をして聞かせるのが、何故か非常に得意らしい。「今も似よりの話を二つ三つ聞いて来ましたが、中でも可笑しかったのは、南八丁堀の湊町辺・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・「わたしはあなたを愛していた。今でもあなたを愛している。どうか自ら欺いていたわたしを可哀そうに思って下さい。」――そう云う意味の手紙をやるのです。その手紙を受けとった達雄は…… 主筆 早速支那へ出かけるのでしょう。 保吉 とうていそ・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
・・・しかも自分とはあまりにかけ離れたことばかり考えているらしい息子の、軽率な不作法が癪にさわったのだ。「おい早田」 老人は今は眼の下に見わたされる自分の領地の一区域を眺めまわしながら、見向きもせずに監督の名を呼んだ。「ここには何戸は・・・ 有島武郎 「親子」
・・・瀬古 そうしておはぎはあんこのかい、きなこのかい、それとも胡麻……白状おし、どれをいくつ……沢本 瀬古やめないか、俺はほんとうに怒るぞ。飢じい時にそんな話をする奴が……ああ俺はもうだめだ。三日食わないんだ、三日。瀬古 沢本・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・馬の尾に巣くう鼠はありと聞けど。「どうも橋らしい」 もう一度、試みに踏み直して、橋の袂へ乗り返すと、跫音とともに、忽ち鳴き出す。 あまり爪尖に響いたので、はっと思って浮足で飛び退った。その時は、雛の鶯を蹂み躙ったよう・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行くようで、底が轟々と沸えくり返るだ。 ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗な海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・すぐ起きる了簡ではあるが、なかなかすぐとは起きられない。肩が痛む腰が痛む、手の節足の節共にきやきやして痛い。どうもえらいくたぶれようだ。なあに起きりゃなおると、省作は自分で自分をしかるようにひとり言いって、大いに奮発して起きようとするが起き・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・近頃はあいつまでが時々いやなそぶりをするんです。わたしもう癪に障っちゃったから」「困ったなあ、だれが一番悪くあたるかい。おつねも何とか言うのかい」「女親です、女親がそりゃひどいことを言うんです。つねのやつは何とも口には言わないけれど・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「ははあ、君のお家は遠いのですか。ちょっとそれを見せてくださいませんか。私はこういうものです。」と、紳士は、名刺を取り出して、信吉に渡しました。名刺には、東京の住所と文学博士山本誠という名が書いてありました。「私は、古代民族の歴史を・・・ 小川未明 「銀河の下の町」
・・・「ははあ、よそのものはみても、私をばみられないとおっしゃるのだな。どうせ、この老耄はくたばるのだからいいけれど、そうした道理というものはないはずじゃ。もう私は歩けないが、どこか近所に、お医者さまはありますかい。」と、老人は、やっと小さな・・・ 小川未明 「三月の空の下」
出典:青空文庫