・・・「だって、女の飲んだくれはあんまりドッとしないからね」「なあに、人はドッとしなくっても、俺はちょいとこう、目の縁を赤くして端唄でも転がすようなのが好きだ」「おや、御馳走様! どこかのお惚気なんだね」「そうおい、逸らかしちゃい・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・私はあわてて自分の部屋に戻った。 咳というものは伝染するものか、それとも私をたしなめるための咳ばらいだったのかなと考えながら、雨戸を諦めて寐ることにした。がらんとした部屋の真中にぽつりと敷かれた秋の夜の旅の蒲団というものは、随分わびしい・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「してみれば、私もまた一人のピコアゾーではあるまいか。最近の私は自分の名前の上に「この男年がない」という形容詞句を冠せてもよいような気がするのである。年があるということは、つまりそれ相当の若さや青春があるという意味であろう。が現在の私は・・・ 織田作之助 「髪」
・・・とはいえそれはあまりお伽話めかした、ぴったりしないところがある。 なにか外国の画で、あそこに似た所が描いてあったのが思い出せないためではないかとも思ってみる。それにはコンステイブルの画を一枚思い出している。やはりそれでもない。 では・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
与助の妻は産褥についていた。子供は六ツになる女を頭に二人あった。今度で三人目である。彼はある日砂糖倉に這入って帆前垂にザラメをすくいこんでいた、ところがそこを主人が見つけた。 主人は、醤油醸造場の門を入って来たところだ・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・幸い、中学へやるくらいの金はあるから、市で傘屋をしている従弟」と叔父は、磨りちびてつるつるした縁側に腰を下して、おきのに訊ねた。「あれを今、学校をやめさして、働きに出しても、そんなに銭はとれず、そうすりゃ、あれの代になっても、また一生頭・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・すこし長く居過ぎた気味はあるね」 と言われて、原は淋しそうに笑っていた。有体に言えば、原は金沢の方を辞めて了ったけれども、都会へ出て来て未だこれという目的が無い。この度の出京はそれとなく職業を捜す為でもある。不安の念は絶えず原の胸にあっ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・この夏はどうしたことからでしたか、ふとこちらへ避暑に来る気になったんですが、――私はあまり人のざわつくところは厭だもんですから。――その代り宿屋なんぞのないということははじめから承知の上なんでしたけれど、さあ、船から上ってそこらの家へ頼んで・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・「街へ出て見よう。」「はあ。」ずるい弟は、しんから嬉しかった。 街は、暮れかけていた。兄は、自動車の窓から、街の奉祝の有様を、むさぼるように眺めていた。国旗の洪水である。おさえにおさえて、どっと爆発した歓喜の情が、よくわかるので・・・ 太宰治 「一燈」
・・・には、はいっていないのであるが、ほぼ同時代の作品ではあり、かつまたページ数の都合もあって、この第一巻にいれて置いた。 これらの作品はすべて、私自身にとっても思い出の深い作品ばかりであり、いまその目次を一つ一つ書き写していたら、世にめずら・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
出典:青空文庫