・・・その子供がおそらく生まれてはじめて映画というものを見たのではないかと想像されたのは、映画中なんべんとなく「はあー、いろんなことがあるんだねえ。……はあ、いろんなことがあるんだねえ」という嘆声を繰り返していたからである。実際その映画にはおとな・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・だんだんに締めつけられて、虎は息苦しそうにはあはあとあえぐのであるが、それでも少しもうろたえたような、弱ったような様子の見えないのはさすがにえらい。一声高く咆哮しておどり上がりおどり上がると、だだっ子の兵児帯がほどけるように大蛇の巻き線がゆ・・・ 寺田寅彦 「映画「マルガ」に現われた動物の闘争」
・・・十歳を越えて猶、夜中一人で、厠に行く事の出来なかったのは、その時代に育てられた人の児の、敢て私ばかりと云うではあるまい。 父は内閣を「太政官」大臣を「卿」と称した頃の官吏の一人であった。一時、頻と馬術に熱心して居られたが、それも何時しか・・・ 永井荷風 「狐」
・・・路は歯の廻らないほど泥濘っているので、車夫のはあはあいう息遣が、風に攫われて行く途中で、折々余の耳を掠めた。不断なら月の差すべき夜と見えて、空を蔽う気味の悪い灰色の雲が、明らさまに東から西へ大きな幅の広い帯を二筋ばかり渡していた。その間が白・・・ 夏目漱石 「三山居士」
・・・そういつまでも悟れぬところをもって見ると、御前は侍ではあるまいと言った。人間の屑じゃと言った。ははあ怒ったなと云って笑った。口惜しければ悟った証拠を持って来いと云ってぷいと向をむいた。怪しからん。 隣の広間の床に据えてある置時計が次の刻・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・自然はあれに使われて、あれが望からまた自然が湧く。疲れてもまた元に返る力の消長の中に暖かい幸福があるのだ。あれあれ、今黄金の珠がいざって遠い海の緑の波の中に沈んで行く。名残の光は遠方の樹々の上に瞬をしている。今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・(ははあ、ここは空気の稀薄が殆んど真空に均しいのだ。だからあの繊細な衣のひだをちらっと乱私はまた思いました。 天人は紺いろの瞳を大きく張ってまたたき一つしませんでした。その唇は微かに哂いまっすぐにまっすぐに翔けていました。けれども少・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・「いらっしゃいまし」と挨拶した。「岡本さんも一緒に召し上れよ」「はあ、私あちらでいただきますから」 陽子の部屋に比べると、海岸に近いだけふき子の家は明るく、眩ゆい位日光が溢れた。ふき子は、縁側に椅子を持ち出し、背中を日に・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・「ははあ、きょうも運動すると暑くなる日だな」と思う。木村の借家から電車の停留場まで七八町ある。それを歩いて行くと、涼しいと思って門口を出ても、行き着くまでに汗になる。その事を思ったのである。 縁側に出て顔を洗いながら、今朝急いで課長・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・その時はあなたがまだ栗色の髪の毛をしていらっしゃいました。わたくしもあの時から見ると、髪の色が段々明るくなっています。晩餐を食べましたのは、市外の公園の料理店でございました。ちょうど宅はベルリンに二週間ほど滞留しなくてはならない用事がありま・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
出典:青空文庫