・・・ この姉を初子と云ったのは長女に生まれた為だったであろう。僕の家の仏壇には未だに「初ちゃん」の写真が一枚小さい額縁の中にはいっている。初ちゃんは少しもか弱そうではない。小さい笑窪のある両頬なども熟した杏のようにまるまるしている。……… ・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・それからまた、現在の二葉屋のへんに「初音」という小さな汁粉屋があって、そこの御膳汁粉が「十二か月」のより自分にはうまかった。食うという事は知識欲とともに当時の最大の要事であったのである。 父に連れられてはじめて西洋料理というものを食った・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・君の亡くされたのは君の初子であった、初子は親の愛を専らにするが世の常である。特に幼き女の子はたまらぬ位に可愛いとのことである。情濃やかなる君にしてこの子を失われた時の感情はいかがであったろう。亡き我児の可愛いというのは何の理由もない、ただわ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・伽羅の本木を買ってかえった彌五右衛門は切腹被仰附度と願ったが、その香木が見事な逸物で早速「初音」と銘をつけた三斎公は、天晴なりとして、討たれた横田嫡子を御前によび出し、盃をとりかわさせて意趣をふくまざる旨を誓言させた。その後、その香木は「白・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・雁金がリアリズムの見地でリアルであるかないかは、彼にとって問題でなく、作者が自分の主張の代人である久内を自由人として鋳出すに必要なワキ役のタイプとしていかす必要にだけ腹をすえて、雁金も山下も、妻、初子すべてを扱っている。長篇「紋章」の終りに・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・ あすは討入りという四月二十日の夜、数馬は行水を使って、月題を剃って、髪には忠利に拝領した名香初音を焚き込めた。白無垢に白襷、白鉢巻をして、肩に合印の角取紙をつけた。腰に帯びた刀は二尺四寸五分の正盛で、先祖島村弾正が尼崎で討死したとき、・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・品に相違なければ大切と心得候事当然なり、総て功利の念を以て物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてやその方が持ち帰り候伽羅は早速焚き試み候に、希代の名木なれば「聞く度に珍らしければ郭公いつも初音の心地こそすれ」と申す古歌に本づき、・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・に相違なければ、大切と心得候事当然なり、総て功利の念をもて物を視候わば、世の中に尊き物は無くなるべし、ましてやその方が持帰り候伽羅は早速焚き試み候に、希代の名木なれば、「聞く度に珍らしければ郭公いつも初音の心地こそすれ」と申す古歌に本づき、・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
出典:青空文庫