・・・座敷を見ている間は、僕はどうしても二人から目を離すことが出来なかった。客が皆飲食をしても、二人は動かずにじっとしている。袴の襞を崩さずに、前屈みになって据わったまま、主人は誰に話をするでもなく、正面を向いて目を据えている。太郎は傍に引き添っ・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・初めは本当の事のように活溌な調子で話すがよい。末の方になったら段々小声にならなくてはいけない。 一 町なかの公園に道化方の出て勤める小屋があって、そこに妙な男がいた。名をツァウォツキイと云った。ツァウォツキイはえらい・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・それからわたくしはあなたをちょっとの間も手離すまいとしたのですね。あなたが誰と知合になられたとか、誰と芝居へおいでになったとか云うことを、わたくしは一しょう懸命になって探索したのです。あのころ御亭主は用事があってロンドンへ往っておいでになる・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・ 彼は手紙に書かなかった妻の病状をもう母親に話す気は起らなかった。彼は妻を母親に渡しておいてひとり日光室へ来た。日光室のガラスの中では、朝の患者たちが籐の寝椅子に横たわって並んでいた。海は岬に抱かれたまま淑かに澄んでいた。二人の看護婦が・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・情熱、確信という点においては聴衆以上であるとしても、話すことの内容は反って聴衆の知識よりも貧しいであろう。それでも演説者のまわりに何か迷信の靄がかかっていれば、多くの宗教家や政治演説家がそうであるように、内容の貧弱な言葉をもってしても何かの・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
・・・――この時、突然私を捕えて私の心を急用から引き放すものがあった。私は坂の上に見える深い空をながめた。小径を両側から覆うている松の姿をながめた。何という微妙な光がすべての物を包んでいることだろう。私は急に目覚めた心持ちであたりを見回した。私の・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫