・・・その海岸は眼路もはるかなといっていいほど砂丘が広々と波打っていた。よく牛が紐のような尻尾で背のあぶを追いながら草を食っていた。彼はそこ以外ではいけないと思った。彼はそこでのことをいろいろに想像した。 龍介は他にお客がなかったとき恵子に「・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ 自分は気がついたように、海の方を見わたす。はるかの果てに地方の山が薄っすら見える。小島の蔭に鳥貝を取る船が一と群帆を聯ねている。「ね、鳩が餌を拾うでしょう」と藤さんがいう。「芝生に何か落ちてるんでしょうか」「あたしがさっき・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知していたつもりであった。 はじめて彼と銀座で逢い、「なんてまあ哀しい男だろう」と思い、私も、つらくてかなわなかった。彼の行く手には、死の壁以外に何も無いのが、ありあ・・・ 太宰治 「織田君の死」
・・・汝ら、之よりも遥かに優るる者ならずや。というキリストの慰めが、私に、「ポオズでなく」生きる力を与えてくれたことが、あったのだ。けれども、いまは、どうにも、てれくさくて言えない。信仰というものは、黙ってこっそり持っているのが、ほんとうで無いの・・・ 太宰治 「鴎」
・・・彼は遥か遠方からやって来た。ああ、その時は何処にも何も無く、すべての土地に持主の名札が貼られてしまっていた。「ええ情ない! なんで私一人だけが皆から、かまって貰えないのだ。この私が、あなたの一番忠実な息子が?」と大声に苦情を叫びながら、彼は・・・ 太宰治 「心の王者」
・・・「それは修学期の最後における恐ろしい比武競技のように、遥かの手前までもその暗影を投げる。生徒も先生も不断にこの強制的に定められた晴れの日の準備にあくせくしていなければならない。またその試験というのが人工的に無闇に程度を高く捻じり上げたもので・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・こういう絵を見るよりも私はうちで複製の広重か江戸名所の絵でも一枚一枚見ている方が遥かに面白く気持が好いのである。 洋画の方へ行くと少し心持がちがう。ちょっと悪夢からさめたような感じもする。尤この頃自分で油絵のようなものをかいているものだ・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・があったが、これも前に一見した新派俳優のよりもはるかにおもしろく見られた。人間がやっていると思うと、どうしても感じる矛盾や不自然さが、人形だと、そう感じられない。あれで、もし背景などをもう少しくふうしてあれほど写実的にしなかったら、いっそう・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・中には宏大な門構えの屋敷も目についた。はるか上にある六甲つづきの山の姿が、ぼんやり曇んだ空に透けてみえた。「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。もちろん私一箇としては話題がありあまるほどたくさんあった。二人の・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・その眼路のはるかつきるまで、咽喉のひりつくような白くかわいた道がつづいていた。 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫