・・・それはとにかく、この絵の中のロンドン、リーディング間の郵便馬車の馬丁がシルクハットをかぶってそうしてやはり角笛を吹いている。そうして自分の「記憶」の夢の中では、この郵便馬車と、銀座の鉄道馬車とがすっかり一つに溶け合ってしまって、切っても切れ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・ヴィクトリアパークの前のレストランでラムネを飲んでいたら、給仕の土人が貝多羅の葉で作った大きな団扇でそばからあおいだ。馬丁にも一杯飲ませてやったら、亭前の花園の黄色い花を一輪ずつとってくれた。N氏がそれを襟のボタン穴にさしたからT氏と自分も・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・生れて間もない私が竜門の鯉を染め出した縮緬の初着につつまれ、まだ若々しい母の腕に抱かれて山王の祠の石段を登っているところがあるかと思うと、馬丁に手を引かれて名古屋の大須観音の広庭で玩具を買っている場面もある。淋しい田舎の古い家の台所の板間で・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・どこへ出るにも馬丁をつけてやることにしていたんだ。夜分なども、碌々眠らないくらいにして、秋山大尉の様子に目を配っておった。「これがあるから監視するんだな。可しこんなものを焼捨てて了おう。」というんで、秋山大尉がその手紙を奥さんの目の前で・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・馭者が二人、馬丁が二人、袖口と襟とを赤地にした揃いの白服に、赤い総のついた陣笠のようなものを冠っていた姿は、その頃東京では欧米の公使が威風堂々と堀端を乗り歩く馬車と同じようなので、わたくしの一家は俄にえらいものになったような心持がした。・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・ 〔已に見る秋風 白蘋に上り 青衫又汚二馬蹄塵一。 青衫又た馬蹄の塵に汚る月明今夜消魂客。 月明るく 今夜 消魂の客昨日紅楼爛酔人。 昨日は紅楼に爛酔するの人年来多病感二前因一。 年来 多病にして前因を・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・指環の輝くやさしい白い手の隣りには馬蹄のように厚い母指の爪が聳えている。垢だらけの綿ネルシャツの袖口は金ボタンのカフスと相接した。乗換切符の要求、田舎ものの狼狽。車の中は頭痛のするほど騒しい中に、いつか下町の優しい女の話声も交るようになった・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・それから人力俥夫になり、馬丁になり、しまいにルンペンにまで零落した。浅草公園の隅のベンチが、老いて零落した彼にとっての、平和な楽しい休息所だった。或る麗らかな天気の日に、秋の高い青空を眺めながら、遠い昔の夢を思い出した。その夢の記憶の中で、・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・「いのししむしゃのかぶとむしつきのあかりもつめくさのともすあかりも眼に入らずめくらめっぽに飛んで来て山猫馬丁につきあたりあわててひょろひょろ落ちるをやっとふみとまりいそいでかぶとをしめなおし月のあかり・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・そして笑いながら、「何しろ馬、馬丁と猟犬を何匹も飼っているような学生がいたんだから、こっちは人並のつき合いも出来かねるようだったよ。教授から個人指導をうけるわけだが、そんな金もありゃしなかったしね」と語った。楡の木のかげの公園で、町の若者た・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
出典:青空文庫