・・・彼女の夫は国立音楽学校でバリトーンをやっている。ターニャは暇があると当直室の机へむき出しの腕をおっつけて代数を勉強した。毎晩六時から十一時まで彼女はブハーリンの名におけるモスクワ大学の労働科で、革命がブルジョアの独占からプロレタリアートに向・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・自分に不当な苦痛や罵詈を与えた者達は、最後まで正しかった者の死屍に対して、どんな悔恨に撃たれながら、頭を垂れるだろう、白い衣を着せられ、綺麗な花で飾った柩に納められた自分が、最後の愛情によって丁寧に葬られる様子が、まざまざと目前に浮み上って・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 訳が分らないで怒鳴りつけられたり擲たれたりして、恐ろしそうに竦んでいる子供達の肩を撫でてやりながら、禰宜様宮田は、黙然としてその罵詈讒謗を浴びていた。 それから毎日毎日こういう厭なことばかりが続いた。 お石は、何かにつけて金を・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・それから寄ってたかってお蝶を揶揄ったところが、おとなしいことはおとなしくても、意気地のある、張りの強いお蝶は、佐野と云うその書生さんの身の上を、さっぱりと友達に打ち明けた。佐野さんは親が坊さんにすると云って、例の殺生石の伝説で名高い、源翁禅・・・ 森鴎外 「心中」
・・・で、社会に何の役にも立たない慾ばり婆々あに金を持たせて置くには及ばないと云って殺す主人公を書いたから、所有権を尊重していない。これも危険である。それにあの男の作は癲癇病みの譫語に過ぎない。Gorki は放浪生活にあこがれた作ばかりをしていて・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・公開書になっているのも、罵詈がしてあれば、棄て置いても好い。あるいは棄て置くのが最紳士らしいかも知れない。また先方にも過誤がある場合には、それを捉えて罵詈の返報をすることも出来る。必ずしも自ら屈して自家の過誤だけを発表しなくても好い。然るに・・・ 森鴎外 「不苦心談」
・・・右左に帆木綿のとばりあり、上下にすじがね引きて、それを帳の端の環にとおしてあけたてす。山路になりてよりは、二頭の馬喘ぎ喘ぎ引くに、軌幅極めて狭き車の震ること甚しく、雨さえ降りて例の帳閉じたれば息籠もりて汗の臭車に満ち、頭痛み堪えがたし。嶺は・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・ひとり出かけて行って秋三の狡さを詰ろうかとも思ったが、それは矢張り自分にとって不得策だと考えつくと、今更安次を連れて来てにじり附けた秋三の抜け目のない遣方に、又腹立たしくなって来た。 安次は食べ終ると暫く缶詰棚を眺めながら、「しびは・・・ 横光利一 「南北」
・・・こういう事になると子供は露骨に意地を張り通します。もちろん私は子供のわがままを何でも押えようとは思いませんが、しかし時々は自分の我のどうしても通らない障壁を経験させてやらなければ、子供の「意志」の成長のためによろしくないと考えています。で、・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・酒粕に漬けた茄子が好きだというので、冬のうちから、到来物の酒粕をめばりして、台所の片隅に貯えておき、茄子の出る夏を楽しみに待ち受ける、というような、こまかい神経のくばり方が、種々雑多な食物の上に及んでいたばかりでなく、着物や道具についてもそ・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫