・・・「ですが、家をお持ちなさるぐらいのことに、別に手間も日間も要らないじゃございませんか」「それがなかなかそうは行かないんですって。何しろこれまで船に乗り通しで、陸で要る物と言っちゃ下駄一足持たないんでしょう、そんなんですから、当人で見・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・三日間尾行するよりほかに物一つ言えなかった弱気のために自嘲していた豹一の自尊心は、紀代子からそんな態度に出られて、本来の面目を取り戻した。ここでおどおどしては俺もお終いだと思うと、眼の前がカッと血色に燃えて、「用って何もありません。ただ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・しかし、さすがに逃げおくれた連中がいて、押収された煙草は二日間合計して、十五万本だということである。 逃げおくれた連中だけで十五万本、だから大阪全体でどれだけの横流しの煙草があるか、想像も出来ないくらいだ。 ある皮肉屋が言っていた。・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・人間にかぶせていた偽善のヴェールをひきさく反抗のメスの文学であろうか、それとも、与謝野晶子、斎藤茂吉の初期の短歌の如く新感覚派にも似た新しい官能の文学であろうか、あるいは頽廃派の自虐と自嘲を含んだ肉体悲哀の文学であろうか、肉体のデカダンスの・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・私は藤沢さんを訪ねるとか、手紙を出すかして、共に悲哀を分とうと思ったが、仕事にさまたげられたのと、極度の疲労状態のため、果せなかった。莫迦みたいに一人蒲団にもぐり込んで、ぼんやり武田さんのことを考えていた。特徴のある武田さんの笑い声を耳の奥・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・どんな悲哀も倦怠も私から煙草を奪い上げることは出来なかったのだ。いや、どんなに救われない状態でも、煙草だけが私を慰めたのだ。 一日四十本以上吸うのは、絶対のニコチン中毒だということだが、私の喫煙量は高等学校時代に、既にその限界を超え・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・そしてその尨大な容積やその藤紫色をした陰翳はなにかしら茫漠とした悲哀をその雲に感じさせた。 私の坐っているところはこの村でも一番広いとされている平地の縁に当っていた。山と溪とがその大方の眺めであるこの村では、どこを眺めるにも勾配のついた・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・そしてもしそれを一服喫ったとする場合、この何日間か知らなかったどんな恐ろしい咳の苦しみが襲って来るかということも吉田はたいがい察していた。そして何よりもまず、少し自分がその人のせいで苦しい目をしたというような場合すぐに癇癪を立てておこりつけ・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・鋭い悲哀を和らげ、ほかほかと心を怡します快感は、同時に重っ苦しい不快感である。この不快感は日光浴の済んだあとなんとも言えない虚無的な疲れで病人を打ち敗かしてしまう。おそらくそれへの嫌悪から私のそうした憎悪も胚胎したのかもしれないのである。・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・という言葉の悲哀を、つくづく身に感じます。 ツイ近ごろのことです、私は校友会の席で、久しぶりで鷹見や上田に会いました。もっともこの二人は、それぞれ東京で職を持って相応に身を立てていますから、年に二度三度会いますが、私とは方面が違うので、・・・ 国木田独歩 「あの時分」
出典:青空文庫