・・・ 二 翌る日のお昼すこし前に、私が玄関の傍の井戸端で、ことしの春に生れた次女のトシ子のおむつを洗濯していたら、夫がどろぼうのような日蔭者くさい顔つきをして、こそこそやって来て、私を見て、黙ってひょいと頭をさげて・・・ 太宰治 「おさん」
・・・手といったら、それこそ植木屋さんに逆もどりだけれど、黒いソフトを深くかぶった日蔭の顔は、植木屋さんにして置くのは惜しい気がする。お母さんに、三度も四度も、あの植木屋さん、はじめから植木屋さんだったのかしら、とたずねて、しまいに叱られてしまっ・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・ふりむくと、刀をさしたさむらいが、夏木立の青い日影を浴びて立っていた。シロオテである。髪を剃ってさかやきをこしらえていた。あの浅黄色の着物を着て、刀を帯び、かなしい眼をして立っていた。 シロオテは片手あげておいでおいでをしつつ、デキショ・・・ 太宰治 「地球図」
・・・世人の最も恐怖していたあの日蔭の仕事に、平気で手助けしていた。その仕事の一翼と自称する大袈裟な身振りの文学には、軽蔑を以て接していた。私は、その一期間、純粋な政治家であった。そのとしの秋に、女が田舎からやって来た。私が呼んだのである。Hであ・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・これまでの経験ではまだ具体的な案は得られないが、適当にやれば、従来なら日影でいじけてしまうような天才を日向へ出して発達させる事も出来ようというのである。 著者はこれにつづいて、天才を見付ける事の困難を論じ、また補助奨励と天才出現とは必ず・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・怖ろしい夢は破れて平和な静かな冬の日影は斜に障子にさしている。縁に出した花瓶の枯菊の影がうら淋しくうつって、今日も静かに暮れかかっている。発汗剤のききめか、漂うような満身の汗を、妻は乾いたタオルで拭うてくれた時、勝手の方から何も知らぬ子供が・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ 近頃にない舒びやかな心持になって門を出たら、長閑な小春の日影がもうかなり西に傾いていた。 三 ノーベル・プライズ ある夜いつものように仕事をしていると電話がかかって来た。某新聞社からだという。何事かと思って出・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・もともと自分の健康という事が主になっている以上、私はこの際最も利己的な動機に従って行くほかはないと思ったので、結局日陰の涼しい所から刈り始めるというきわめて平凡なやり方に帰ってしまった。 するとまたすぐに第二の問題に逢着した。芝生とそれ・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・そのうちにいよいよ今日はという事になって朝のうちに物置の屋根裏から台が取り下ろされ、一年中の塵埃や黴が濡れ雑巾で丁寧に拭い清められ、それから裏庭の日蔭で乾かされる。そしていよいよ夕方になってから中庭に持ち出されると、それで始めて私の家に本当・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ 白い茶わんにはいっている湯は、日陰で見ては別に変わった模様も何もありませんが、それを日向へ持ち出して直接に日光を当て、茶わんの底をよく見てごらんなさい。そこには妙なゆらゆらした光った線や薄暗い線が不規則な模様のようになって、それがゆる・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
出典:青空文庫