・・・花田 誰が死んだのはおまえだってそういったい……ところで俺たちは実に悲嘆に暮れてしまった。いったい俺たちが、五人そろって貧乏のどんづまりに引きさがりながらも、鼻歌まじりで勇んで暮らしているのは、誰にもあずけておけない仕事があるからだ。・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・君は先年長男子を失うたときには、ほとんど狂せんばかりに悲嘆したことを僕は知っている。それにもかかわらず一度異境に旅寝しては意外に平気で遊んでいる。さらばといって、君に熱烈なある野心があるとも思えない。ときどきの消息に、帰国ののちは山中に閑居・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・と嘆じ、この悲嘆の声を発してわれわれが生涯を終るのではないかと思うて失望の極に陥ることがある。しかれども私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。それは実に最大遺物であります。金も実に一・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・此人生や自然はどんな人にも感激を与え慰藉を与えまた苦痛や悲嘆を与えている。そうして瞬時も人間にその姿の全体を掴ませない。然しその中には何か知ら我々を引摺って行く所の力がある。それは即ち現実そのものに外ならない。我々が永久に此の現実を究めつく・・・ 小川未明 「囚われたる現文壇」
・・・ただ夢中です、身も世もあられぬ悲嘆さを堪え忍びながら如何にもして前の通りに為たいと、恥も外聞もかまわず、出来るだけのことをしたものです。」「それで駄目なんですか。」「無論です。」「まア、」とお正は眼に涙を一ぱい含ませている。・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・といった、また左衛ノ尉の悲嘆に乱れるのを叱って、「不覚の殿原かな。是程の喜びをば笑えかし。……各々思い切り給え。此身を法華経にかうるは石にこがねをかえ、糞に米をかうるなり」 かくて濤声高き竜ノ口の海辺に着いて、まさに頸刎ねられん・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・恐怖と悲嘆とに気が狂った女が、きいきい声をあげてかけ歩く。びっくりしたのと、無理に歩いて来たのとで、きゅうに産気づいて苦しんでいる妊婦もあり、だれよだれよと半狂乱で家族の人をさがしまわっているものがあるなどその混乱といたましさとは、じっさい・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・夫のつらさは、よくわかるけれども、しかし、私だって夫に恋をしているのだ、あの、昔の紙治のおさんではないけれども、 女房のふところには 鬼が棲むか あああ 蛇が棲むか とかいうような悲歎には、革命思想も破壊思想も、なんの縁・・・ 太宰治 「おさん」
・・・ささやかな思い出に一滴の涙が眼がしらに浮ぶときにも、彼はここぞと鏡の前に飛んでゆき、自らの悲歎に暮れたる侘しき姿を、ほれぼれと眺めた。取るに足らぬ女性の嫉妬から、些かの掠り傷を受けても、彼は怨みの刃を受けたように得意になり、たかだか二万法の・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・けれど悲嘆や、追憶や、空想や、そんなものはどうでもよい。疼痛、疼痛、その絶大な力と戦わねばならぬ。 潮のように押し寄せる。暴風のように荒れわたる。脚を固い板の上に立てて倒して、体を右に左にもがいた。「苦しい……」と思わず知らず叫んだ。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫