・・・そうでございましょう。人間というものは夜は変になりますのね。誰も誰も持っている秘密が、闇の中で太って来て、恐ろしい姿になりますかと思われますね。ほんにこわいこと。でも、明りはまぶしゅうございますわ。」 フィンクはこう思った。己の腹の中で・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・その声が思ったより高く一間の中に響き渡ると、返事をするようにどの隅からもうめきや、寝返りの音や、長椅子のぎいぎい鳴る音や、たわいもない囈語が聞える。 フィンクは暫くぼんやり立っていた。そしてこう思った。なるほどどこにもかしこにも、もう人・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・しかしそのために私はある時の間冷たい人間になっています。 実際私たちのような仕事を選んだ者は、ある一つの輝いた瞬間を捕えるために、果実のないむだな永い時間を費やすことがあります。そういう時に人が、そんなにノラクラしているくらいなら、と思・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・舟ばたにすれすれの花から、一尺先、二尺先、あるいは一間先、二間先、一面にあの形の整った、清らかな花が並んでいるのである。舟の周囲、船頭の棹の届く範囲だけでも何百あるかわからない。しかるにその花は、十間先も、一町先も、五町先も、同じように咲き・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫