・・・自身の卑屈な弱さから、断り切れず四円まきあげられ、あとでたいへん不愉快な思いをしたのであるが、それから、ひとつき経って十月のはじめ、私は、そのときの贋百姓の有様を小説に書いて、文章に手を入れていたら、ひょっこり庭へ、ごめん下さいまし、私は、・・・ 太宰治 「市井喧争」
・・・私が九月のはじめ、甲府から此の三鷹の、畑の中の家に引越して来て、四日目の昼ごろ、ひとりの百姓女がひょっこり庭に現われ、ごめん下さいましい、と卑屈な猫撫声を発したのである。私はその時、部屋で手紙を書いていたのであるが、手を休めて、女のさまを、・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・女の局員たちの噂では、なんでも、宮城県のほうで戦災に遭って、無条件降伏直前に、この部落へひょっこりやって来た女で、あの旅館のおかみさんの遠い血筋のものだとか、そうして身持ちがよろしくないようで、まだ子供のくせに、なかなかの凄腕だとかいう事で・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・ そのとき、あのひとが、ひょっこり出て来た。「いいえ。別館、三番さん。」そう乱暴な口調で言って、さっさと自分で、笠井さんの先に立って歩いた。ゆきさんといった。「よく来たわね。よく来たのね。」二度つづけて言って、立ちどまり、「少し・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・昼すこし過ぎにやっと書き終えて、ほっとしていたところへ、実に久しぶりの友人が、ひょっこり訪ねて来た。ちょうどいいところであった。私は、その友人と一緒に、ごはんを食べ、よもやまの話をして、それから散歩に出たのである。家の近くの、井の頭公園の森・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・ そしたら、きのこの上に、ひょっこり三疋の小猿があらわれて腰掛けました。 やっぱり、まん中のは、大将の軍服で、小さいながら勲章も六つばかり提げています。両わきの小猿は、あまり小さいので、肩章がよくわかりませんでした。 小猿の大将・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・りも高くしげっている草の間を息せききってかけて来て、惰力で、まだ幾分駈け気味に段々とまりかけたとき、唇を開き息をはずまし、遠くまで逃げ終せたうれしさでこっそり笑っている女の子のわたしの前に、いきなり、ひょっこり蓬々と髪をのばした男の、黒いよ・・・ 宮本百合子 「道灌山」
・・・そうかと思うと、又ひょっこり現れて、暫く熱心に通いつづけるという工合であった。そういう風にして、何年ぶりかで図書館へゆくとき、いつも、そこに一人の司書の小堅い顔と黒い上っぱりのくくれた袖口とを思い出した。その人はいるかしら、と思って来て、待・・・ 宮本百合子 「図書館」
・・・「そこへ兄きがひょっこり帰って来た。お袋が馬鹿に喜んで、こうして毎日拝んだ甲斐があると云って不動様の掛物の方へ指ざしをしたのだ。そうすると、兄きは妙な奴さ。ふうん、おっ母さんはこんな物を拝んだのですかと云って、ついと立って掛物の前に行っ・・・ 森鴎外 「里芋の芽と不動の目」
・・・お前の明るいお下の頭が、あの梯子を登った暗い穴の所へ、ひょっこり花車のように現われるのさ。すると、俺は、すっかり憂鬱がなくなっちゃって、はしゃぎ廻ったもんだ。とにかく、あの頃は、俺も貧乏していたが、一番愉快だった。あれからは、俺もお前も、若・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫