・・・常子は美人と言うほどではない。もっともまた醜婦と言うほどでもない。ただまるまる肥った頬にいつも微笑を浮かべている。奉天から北京へ来る途中、寝台車の南京虫に螫された時のほかはいつも微笑を浮かべている。しかももう今は南京虫に二度と螫される心配は・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、どこかひょうきんな所のある老人で、顔つきにも容子にも、悪気らしいものは、微塵もない。着ているのは、麻の帷子であろう。それに萎えた揉烏帽子をかけたのが、この頃評判の高い鳥羽僧正の絵巻の中の人物を見るようで・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・顔は美人と云うほどではない。しかし、――保吉はまだ東西を論ぜず、近代の小説の女主人公に無条件の美人を見たことはない。作者は女性の描写になると、たいてい「彼女は美人ではない。しかし……」とか何とか断っている。按ずるに無条件の美人を認めるのは近・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・――おれはそう思っていたから、天下を計る心なぞは、微塵も貯えてはいなかった。」「しかしあの頃は毎夜のように、中御門高倉の大納言様へ、御通いなすったではありませんか?」 わたしは御不用意を責めるように、俊寛様の御顔を眺めました、ほんと・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・こちらから快活に持ちかけて、冗談話か何かで先方の気分をやわらがせるというようなタクトは彼には微塵もなかった。親しい間のものが気まずくなったほど気まずいものはない。彼はほとんど悒鬱といってもいいような不愉快な気持ちに沈んで行った。おまけに二人・・・ 有島武郎 「親子」
・・・三枚ほどの硝子は微塵にくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは悠々としてまたそこを歩み去った。 彼れが気がついた時には、何方をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 片手を懐中へ突込んで、どう、してこました買喰やら、一番蛇を呑んだ袋を懐中。微塵棒を縦にして、前歯でへし折って噛りながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻。少兀の紺の筒袖、どこの媽々衆に貰ったやら、浅黄の扱・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・人間が見て、俺たちを黒いと云うと同一かい、別して今来た親仁などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦めて吹いて、右の不思議な花を微塵にしょうと苛っておるわ。野暮めがな。はて、見ていれば綺麗なものを、仇花なりとも美しく咲かしておけば可い事よ。三の・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・まったく色が白かったら、よし、輪郭は整って居らずとも、大抵は美人に見えるように思う。僕の僻見かも知れぬが。 同じ緋縮緬の長襦袢を着せても着人によりて、それが赤黒く見える。紫の羽織を着せても、着人によりて色が引き立たない。青にしろ、浅葱に・・・ 泉鏡花 「白い下地」
・・・、大夕立これあり、孫八老、其の砌某所墓地近くを通りかかり候折から、天地晦冥、雹の降ること凄まじく、且は電光の中に、清げなる婦人一人、同所、鳥博士の新墓の前に彳み候が、冷く莞爾といたし候とともに、手の壺微塵に砕け、一塊の鮮血、あら土にしぶき流・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
出典:青空文庫