・・・雨にびっしょり濡れたそのレンコオトを脱ぎもせずに部屋をぐるぐるいそがしげに廻って歩いた。歩きながら、ひとりごとのようにして呟くのである。「君、君。起きたまえ。僕はひどい神経衰弱らしいぞ。こんなに雨が降っては、僕はきっと狂ってしまう。海賊・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・三島のひとたちは派手好きであるから、その雨の中で団扇を使い、踊屋台がとおり山車がとおり花火があがるのを、びっしょり濡れて寒いのを堪えに堪えながら見物するのである。 次郎兵衛が二十二歳のときのお祭りの日は、珍らしく晴れていた。青空には鳶が・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ そこで、ピョートルは、ルバーシカの下に汗をびっしょりかいて、村の文盲撲滅の講習会へ出かけるということになる。 若い者に字を習うということが、案外きまりわるくないと分る。やがて、ピョートルの女房も来る。女房が隣りの女房もつれて来る。・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェト同盟の文化的飛躍」
・・・汗をびっしょりかいてさあまあ」と云ってほしてあった手ぬぐいで私の汗をふいて下すった。にわとりはもうむこう向でしらんかおして土をつついて居る。 私は始から終りまでの事をお話するとお祖母様はあきれた顔をして「まあなんだねー、女のくせに、もう・・・ 宮本百合子 「三年前」
・・・ 今朝も、鼻の頭に大粒な汗をびっしょりかいて、大忙がしに働いていながら、どういうわけかおばあさんの頭からは、どうしても禰宜様宮田のことが、離れない。「妙な男だわえ……貧乏人の分際で……金……何にしろ遣ろうと云うのは金なんだから!」・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・皮膚の弱いひろ子は、全く通風のない、びっしょり汗にぬれた肌も浴衣もかわくということのない監房の生活で、毛穴一つ一つに、こまかい赤い汗もが出来た。医者は、その汗もに歯みがき粉をつけておけと、云った。しまいに掌、足のうら、唇のまわりだけのこして・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・それから録音にとりかかる前、二人で話しあっていたあいだに、びっしょり汗をかいた譲原さんを想い出す。その時、譲原さんがどんなに身体がわるいかということは誰も知らなかった。あんまり譲原さんが汗をかくので、わたしもその時の担当者であった江上さんも・・・ 宮本百合子 「譲原昌子さんについて」
・・・ペーヴメントを濡し薄い女靴下をびっしょりにして降る雨は、自動車がほろの上にしぶきを立てつつ孤独に走る両側で夏の緑をずっぷり溶かした。 驟雨が上る。翌日は蒸し暑い残暑だ。樹がロンドンじゅうで黄葉した。 空は灰色である。雨上りのテームズ・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
出典:青空文庫