・・・それが壁へ貼った鏡を後に、絶えず鉛筆を動かしながら、忙しそうにビルを書いている。額の捲き毛、かすかな頬紅、それから地味な青磁色の半襟。―― 陳は麦酒を飲み干すと、徐に大きな体を起して、帳場机の前へ歩み寄った。「陳さん。いつ私に指環を・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 午前六時といえば、この界隈のビル街もひっそりと静まりかえって、人通りもない。「なんだ、人間は一匹もおらへんのンか」 豹吉はそれがこの男の癖の唾をペッと吐き捨てた。 その拍子に、淀川の流れに釣糸を垂れている男の痩せた背中が、・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・申しおくれましたが、当時の僕の住いは、東京駅、八重洲口附近の焼けビルを、アパート風に改造したその二階の一部屋で、終戦後はじめての冬の寒風は、その化け物屋敷みたいなアパートの廊下をへんな声を挙げて走り狂い、今夜もまたあそこへ帰って寝るのかと思・・・ 太宰治 「女類」
・・・ 廊下から中央階段を降りようとする途中で窓越しに東を見ると、地下鉄ビルの照明が見える。サッポロビールの活動照明、ビール罎の中から光の噴泉が花火のように迸しる。 靴が見えない。玄関の隅々をのぞき廻る。「××さん、靴はあちらですよ」。白・・・ 寺田寅彦 「病院風景」
・・・お一人が五ビルです。」 ひなげしはしいんとしてしまいました。お医者の悪魔もあごのひげをひねったまましいんとして空をみあげています。雲のみねはだんだん崩れてしずかな金いろにかがやき、そおっと、北の方へ流れ出しました。 ひなげしはやっぱ・・・ 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」
・・・ 事務所は依然八重洲ビルにあり。名称も元のままですが、主体は曾禰氏が主です。ところがこの老博士は今年八十四五歳であり、君子であり品格をもった国宝的建築家でありますが、現実の社会事情からは些か霞の奥に在る。ために国男はじめ所員一同具体的な・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・瞬間つい気取るようにして、眼のなかには自分を調べる色がきらめくのである。ビルの昼の休みの洗面所の鏡の前に若い女事務員たちが並んで、顔をいじりながら喋る時の独得の調子で、盛んに喋っているのも面白い。 ベルリンで或る洒落た小物屋の店へ入って・・・ 宮本百合子 「この初冬」
・・・この間新聞に、通称ママといわれる売笑婦が焼跡の空きビルで屍体となって発見されたという記事がありました。世界には有名なゾラの小説でナナという売笑婦がありました。ミミという売笑婦もいました。ルルという女もいます。同じ字を二つ重ねた売笑婦の愛嬌の・・・ 宮本百合子 「自覚について」
・・・ 今年の冬から、日本じゅうお米が七分搗になります。ビルディングの暖房もずっと減ったり無くなったりするそうですから「寒帯ビル」も出現するそうです。そうしたら七十二歳の老人が主唱で更に「外套無し」を宣伝しはじめているというニュースが新聞に出・・・ 宮本百合子 「二人の弟たちへのたより」
出典:青空文庫