・・・『するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶の音であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳のころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈の低い肥えた漢子であった。その顔の色、その目の光はちょうど悲しげな琵琶の音にふさわしく、あの・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ 作品のなかに兵卒が現れだしたのは、これよりさき大倉桃郎の「琵琶歌」にも見られるが、花袋は、もっとよく兵卒に即して、戦場を描いている。これは、日清戦争当時の独歩や蘆花が、士官若しくはそれ以上しか眼にうつらなかったのに比して、一段の進歩と・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・ 例えば殺人罪を犯した浪人の一団の隠れ家の見当をつけるのに、目隠しされてそこへ連れて行かれた医者がその家で聞いたという琵琶の音や、ある特定の日に早朝の街道に聞こえた人通りの声などを手掛りとして、先ず作業仮説を立て、次にそのヴェリフィケー・・・ 寺田寅彦 「西鶴と科学」
・・・その背景の前に時たま現れる鳥影か何ぞのように、琴や琵琶の絃音が投げ込まれる。そして花片の散り落ちるように、また漏刻の時を刻むように羯鼓の音が点々を打って行くのである。 ここが聞きどころつかまえどころと思われるような曲折は素人の私には分ら・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 同じく昔の郷里の夏の情趣と結びついている思い出の売り声の中でも枇杷葉湯売りのそれなどは、今ではもう忘れている人よりも知らぬ人が多いであろう。朱漆で塗った地に黒漆でからすの絵を描いたその下に烏丸枇杷葉湯と書いた一対の細長い箱を振り分けに・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・半農半商ともいうべきそういう人々の庭には梅、桃、梨、柿、枇杷の如き果樹が立っている。 去年の春、わたくしは物買いに出た道すがら、偶然茅葺屋根の軒端に梅の花の咲いていたのを見て、覚えず立ちどまり、花のみならず枝や幹の形をも眺めやったのであ・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
一 枇杷の実は熟して百合の花は既に散り、昼も蚊の鳴く植込の蔭には、七度も色を変えるという盛りの長い紫陽花の花さえ早や萎れてしまった。梅雨が過ぎて盆芝居の興行も千秋楽に近づくと誰も彼も避暑に行く。郷里へ帰る。そして炎暑の明い寂寞が・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・水蜜桃や、林檎や、枇杷や、バナナを綺麗に籠に盛って、すぐ見舞物に持って行けるように二列に並べてある。庄太郎はこの籠を見ては綺麗だと云っている。商売をするなら水菓子屋に限ると云っている。そのくせ自分はパナマの帽子を被ってぶらぶら遊んでいる。・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・若楓柚の花や善き酒蔵す塀の内耳目肺腸こゝに玉巻く芭蕉庵採蓴をうたふ彦根の夫かな鬼貫や新酒の中の貧に処す月天心貧しき町を通りけり秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者雁鳴くや舟に魚焼く琵琶湖上のごときこの例なり。され・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 九時過、提燈の明りで椎の葉と吊橋を照し宿に帰ると、昼間人のいなかった傍部屋で琵琶の音がする。つるつるな板の間でそれを聴いていた女中がひとりでに声を小さく、「おかいんなさいまし」と、消した提燈を受取った。〔一九二七年一月〕・・・ 宮本百合子 「山峡新春」
出典:青空文庫