・・・石田と二人で情痴の限りを尽した待合での数日を述べている条りは必要以上に微に入り細をうがち、まるで露出狂かと思われるくらいであったが、しかしそれもありし日の石田の想出に耽るのを愉しむ余りの彼女の描写かと思えば、あわれであった。早く死刑になって・・・ 織田作之助 「世相」
・・・そういう形式でしか性欲に耽ることができなくなっているのではなかろうか。それとも彼女という対象がそもそも自分には間違った形式なのだろうか」「しかし俺にはまだ一つの空想が残っている。そして残っているのはただ一つその空想があるばかりだ」 ・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・そして夜が更けるにしたがってなんとなく廃墟に宿っているような心持を誘うのである。私の眼はその荒れ寂びた空想のなかに、恐ろしいまでに鮮やかな一つの場面を思い浮かべる。それは夜深く海の香をたてながら、澄み透った湯を溢れさせている溪傍の浴槽である・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・そして此情想に耽る時は人間の浅間しサから我知らず脱れ出ずるような心持になる。あたかも野辺にさすらいて秋の月のさやかに照るをしみじみと眺め入る心持と或は似通えるか。さりとて矢も楯もたまらずお正の許に飛んで行くような激越の情は起らないのであった・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・しかるに叔父さんもその希望が全くなくなったがために、ほとんど自棄を起こして酒も飲めば遊猟にもふける、どことなく自分までが狂気じみたふうになられた。それで僕のおとっさんを始めみんな大変に気の毒に思っていられたのである。 ところが突然鉄也さ・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・ その夜二人で薄い布団にいっしょに寝て、夜の更けるのも知らず、小さな豆ランプのおぼつかない光の下で、故郷のことやほかの友の上のことや、将来の望みを語りあったことは僕今でも思い起こすと、楽しい懐しいその夜の様が眼の先に浮かんでくる。 ・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・』『もうよそう、あまりふけるから。まだいくらもある。北海道歌志内の鉱夫、大連湾頭の青年漁夫、番匠川の瘤ある舟子など僕が一々この原稿にあるだけを詳しく話すなら夜が明けてしまうよ。とにかく、僕がなぜこれらの人々を忘るることができないかという・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
この戯曲は私の青春時代の記念塔だ。いろいろの意味で思い出がいっぱいまつわっている。私はやりたいと思う仕事の志がとげられず、精力も野心も鬱積してる今日、青春の回顧にふけるようなことはあまりないが、よく質問されるので、この戯曲・・・ 倉田百三 「『出家とその弟子』の追憶」
・・・ 晩が来ると、夜がふけるのを待たずに呉は出発した。 田川は、ベットに横たわっていた。「気をつけろよ」 呉は出かけに言った。「ああ」 一時間して、おやじが支那人部屋へとびこんできた。おやじは、また、郭進才の場合のように・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 夜がふけるに従って、頭の上では、星が切れるように冴えかえった。酒場のある向うの丘からこちらの丘へ燈火をつけない橇が凍った雪に滑桁をきし/\鳴らせ、線路に添うて走せてきた。蹄鉄のひゞきと、滑桁の軋音の間から英語のアクセントかゝったロシア・・・ 黒島伝治 「氷河」
出典:青空文庫