・・・HはS村の伯父を尋ねに、Nさんはまた同じ村の籠屋へ庭鳥を伏せる籠を註文しにそれぞれ足を運んでいたのだった。 浜伝いにS村へ出る途は高い砂山の裾をまわり、ちょうど海水浴区域とは反対の方角に向っていた。海は勿論砂山に隠れ、浪の音もかすかにし・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・久保田君と君の主人公とは、撓めんと欲すれば撓むることを得れども、折ることは必しも容易ならざるもの、――たとえば、雪に伏せる竹と趣を一にすと云うを得べし。 この強からざるが故に強き特色は、江戸っ児の全面たらざるにもせよ、江戸っ児の全面に近・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・黒犬は悪戦頗る努め、ついに敵を噛み伏せるに至った。そこへ警戒中の巡査も駈けつけ、直ちに狼を銃殺した。この狼はルプス・ジガンティクスと称し、最も兇猛な種属であると云う。なお宮城動物園主は狼の銃殺を不当とし、小田原署長を相手どった告訴を起すとい・・・ 芥川竜之介 「白」
・・・いや、はにかんで眼を伏せると、長い睫毛が濡れたように瞼にかぶさって、まるで眠っているように見えるその美しさには、勿論どきんとしたが、しかし、それよりも。「あのウ、失礼ですが、あなたはいつか僕らの隊へ、歌の慰問に来て下すった方ではないでし・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・この時代の人は大概現世祈祷を事とする堕落僧の言を無批判に頂戴し、将門が乱を起しても護摩を焚いて祈り伏せるつもりでいた位であるし、感情の絃は蜘蛛の糸ほどに細くなっていたので、あらゆる妄信にへばりついて、そして虚礼と文飾と淫乱とに辛くも活きてい・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・病と臥せる我の作略を面白しと感ずる者さえあろう。――ランスロットは漸くに心を定める。 部屋のあなたに輝くは物の具である。鎧の胴に立て懸けたるわが盾を軽々と片手に提げて、女の前に置きたるランスロットはいう。「嬉しき人の真心を兜にまくは・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ そのありなしの日照りの雨が霽れたので、草はあらたにきらきら光り、向うの山は明るくなって、少女はまぶしくおもてを伏せる。 そっちの方から、もずが、まるで音譜をばらばらにしてふりまいたように飛んで来て、みんな一度に、銀のすすきの穂にと・・・ 宮沢賢治 「マリヴロンと少女」
・・・彼女は、読みかけて居た本を伏せると、深い息をつきながら、自分の周囲を見廻した。 白地の壁紙、その裾を廻って重くたれ下がって居る藁の掛布、机、ランプスタンド、其等は、今彼女の手にふれる総ての書籍が、遠い故国の母の手元から送られたものである・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・ オックスフォード広場で、勤帰りを待伏せる春婦が、ショー・ウィンドウのガラス面に自分の顔を、内部にこの商品を眺めつつぶらつき、やがて三十分もするとロンドン市中、あらゆる地下電車ステーションの昇降機とエスカレータアは黒い人間の粒々を密・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・能の役者は足を水平にしたまま擦って前に出し、踏みしめる場所まで動かしてから急に爪先をあげてパタッと伏せる。この動作は人の自然な歩き方を二つの運動に分解してその一々をきわ立てたものである。従って有機的な動き方を機械的な動き方に変質せしめたもの・・・ 和辻哲郎 「能面の様式」
出典:青空文庫