・・・多くの浮遊の事実の中から、たった一つの真実を拾い出して、あの芸術家は、権威を以て答えたのです。検事も、それを信じました。二人共に、真実を愛し、真実を触知し得る程の立派な人物であったのでしょう。 あの、あわれな、卑屈な男も、こうして段々考・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・北方の燈台守の細君が、燈台に打ち当って死ぬ鴎の羽毛でもって、小さい白いチョッキを作り、貞淑な可愛い細君であったのに、そのチョッキを着物の下に着込んでから、急に落ち着きを失い、その性格に卑しい浮遊性を帯び、夫の同僚といまわしい関係を結び、つい・・・ 太宰治 「女人訓戒」
・・・高いリアリズムが、女のこの不埒と浮遊を、しっかり抑えて、かしゃくなくあばいて呉れたなら、私たち自身も、からだがきまって、どのくらい楽か知れないとも思われるのですが、女のこの底知れぬ「悪魔」には、誰も触らず、見ないふりをして、それだから、いろ・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・この人の所へある日遠方の富裕な地主イブラヒム・ベグ・ハジからの手紙をもった使いが来て、「入れ歯を一そろい作ってこの使いの者に渡してくれ」とのことであった。そこで歯医者は返事をかいて、「口中をよく拝見した上でないと入れ歯はできないから御足労な・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・比重は無論空気に比べて著しく大きいが、その体積に対して面積が割合に大きいために、空気の摩擦の力が重力の大部分を消却し、その上到るところに渦のような気流があるために永く空中に浮游しうるのである。その外に煙突の煙からは煤に混じて金属の微粒も出る・・・ 寺田寅彦 「塵埃と光」
・・・ 船首の突端へ行って海を見おろしていると深碧の水の中に桃紅色の海月が群れになって浮遊している。ずっと深い所に時々大きな魚だか蝦だか不思議な形をした物の影が見えるがなんだとも見定めのつかないうちに消えてしまう。 右舷に見える赤裸の連山・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・その心になるものは通例、顕微鏡でも見えないほどの、非常に細かい塵のようなものです、空気中にはそれが自然にたくさん浮遊しているのです。空中に浮かんでいた雲が消えてしまった跡には、今言った塵のようなものばかりが残っていて、飛行機などで横からすか・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
・・・その際器内の水の運動を水中に浮遊するアルミニウム粉によって観察して見ると、底面から熱せられた水は決して一様には直上しないで、まず底面に沿うて器底の中央に集中され、そこから幅の狭い板状の流線をなして直上する。その結果として、底面に直接触れてい・・・ 寺田寅彦 「とんびと油揚」
・・・時の長短という事はもちろん相対的な意味しかない。蜉蝣の生涯も永劫であり国民の歴史も刹那の現象であるとすれば、どうして私はこの活動映画からこんなに強い衝動を感じたのだろう。 われわれがもっている生理的の「時」の尺度は、その実は物の変化の「・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・ 端唄が現す恋の苦労や浮世のあじきなさも、または浄瑠璃が歌う義理人情のわずらわしさをもまだ経験しない幸福な富裕な町家の娘、我儘で勝気でしかも優しい町家の娘の姿をば自分は長唄の三味線の音につれてありありと空想中に描き出した。そして八月の炎・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫