・・・息子が死んでも日本が克った方がいいか、日本が負けても、子息が無事でいた方が好いかなんてね。莫迦にしてやがると思って、私も忌々しいからムキになって怒るんだがね。」 悼ましい追憶に生きている爺さんの濁ったような目にはまだ興奮の色があった。・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・三月九日の夜に死んだか、無事であったか、その後興行町の話が出ても、誰一人この風呂番の事を口にするものがない。彼の存在は既に生きている時から誰にも認められていなかったのだ。 その時分、踊子たちの話によると、家もあった、おかみさんもあった。・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・「それでその所天の方は無事なのかね」「所天は黒木軍についているんだが、この方はまあ幸に怪我もしないようだ」「細君が死んだと云う報知を受取ったらさぞ驚いたろう」「いや、それについて不思議な話があるんだがね、日本から手紙の届かな・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ ――手前は地震が何のことなく無事に終るということが、あらかじめ分ってたと言ったな。 ――言ったよ。 ――手前は地震学を誰から教わった。鯰からか! それとも発明したのか。 ――そんなことは言う必要はないじゃないか。ただ事実が・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・我輩は之を飼放しにして無事を楽しまんとする者なり。今の世間の実際に女子の不身持にして辱を晒す者なきに非ず、毎度聞く所なれども、斯く成果てたる其原因は、父母たる者、又夫たる者が、其女子を深く家の中に閉籠め置かざりしが故なりやと言うに、必ずしも・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ところが、つかまえられる鳥よりは、つかまえられないで無事に天の川の砂の上に降りるものの方が多かったのです。それは見ていると、足が砂へつくや否や、まるで雪の融けるように、縮まって扁べったくなって、間もなく熔鉱炉から出た銅の汁のように、砂や砂利・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・が、無事に千回以上の公演をつづけたが、一九三六年、解散させられた。チューリッヒで、「公安妨害」の口実で公演禁止されたのをはじめとして、ナチス外交官が出さきの外国でまでエリカの活動を妨害して、とうとう、それを解散させてしまったのであった。この・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・まあ、二人のおさないものが無事に冬を過してよかった」こう言って小屋を出た。 厨子王は杵を置いて姉のそばに寄った。「姉えさん。どうしたのです。それはあなたが一しょに山へ来て下さるのは、わたしも嬉しいが、なぜ出し抜けに頼んだのです。なぜわた・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ これなら無事だ、と思われる安全な道が、突然二人の前に開けて来た。「いえ、最近です。」「好きなんですね。」「おれのう、頭の休まる法はないものかと、いつも考えていたときですが、高田さんの俳句をある雑誌で見つけて、さっそく入門し・・・ 横光利一 「微笑」
・・・祈り終って声は一層幽に遠くなり、「坊や坊には色々いい残したいことがあるが、時迫って……何もいえない……ぼうはどうぞ、無事に成人して、こののちどこへ行て、どのような生涯を送っても、立派に真の道を守ておくれ。わたしの霊はここを離れて、天の喜びに・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫