・・・スウルヂェエにしろ、ジネストにしろ、いずれも誰にも知られない平民的な苗字で目下自分の交際している貴夫人何々の名に比べてみれば、すこぶる殺風景である。しかしこの平民的な苗字が自分の中心を聳動して、過ぎ去った初恋の甘い記念を喚び起すことは争われ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・「キュリー夫人伝」を書いて、日本にもしたしまれているキュリー夫人の二女エヴ・キュリーは、一九四三年に「戦士のあいだを旅して」という旅行記をニューヨークから出版した。それがさいきん「戦塵の旅」という題で、ソヴェト同盟旅行の部分だけ翻訳出版・・・ 宮本百合子 「明日の知性」
・・・ 障子が一枚無人の裡に開け放されて居たのを思い出し、或は猫でもかかったのではないかと心付いた。私は立って行って、上から細かい網目の中を覗いた。そして、意外にも、餌壺に一粒の粟さえないのを発見した。 いつも、さくさくとした細やかな実が・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・下山事件につづいておこった三鷹の無人電車暴走、そしてそのことが思いがけない犠牲者を出した事件については、こんにちでもまだわたしたちに、信じるべき事実、というものが示されていない。したがって、ことの真実に立って社会的発言をする責任を感じている・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・ずっと先、上落合の方の家にたった一人で暮していたときは、鼠のあばれようがひどくて、天井の上で何か齧っている物音が、無人さに対して動物の悪意を示してさえいるようで、猛々しかった。一々その鼠を追っぱらっていられない。その強情でしつこい歯の音の下・・・ 宮本百合子 「鼠と鳩麦」
・・・けれども、無人な或は、土の中のような色をした黒坊の母子が、放牧された牛などに混って、ぽつんと、野の中に立って居る様子は、非常に物淋しい心持がする。 にぎやかな色、あかるい空、しかし歌をうたう心持はしない。暖い大地の、不思議な物懶さと、陰・・・ 宮本百合子 「無題(二)」
・・・ならなくても、こちらからお宿へ届けると云われ、頼んで置いて帰ってみると、品物が先へ届いていた事や、それからパリイに滞在していて、或る同族の若殿に案内せられてオペラを見に行った時、フォアイエエで立派な貴夫人が来て何か云うと、若殿がつっけんどん・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・旁若無人という語はこの男のために作られたかと疑われる。 この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。この車の軌道を横たわるに会えば、電車の車・・・ 森鴎外 「空車」
この対話に出づる人物は 貴夫人 男の二人なり。作者が女とも女子とも云わずして、貴夫人と云うは、その人の性を指すと同時に、齢をも指せるなり。この貴夫人と云う詞は、女の生涯のうちある五年間を指す・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・ 食事が済んだ時、それまで公爵夫人ででもあるように、一座の首席を占めていたおばさんが、ただエルリングはもう二十五年ばかりもこの家にいるのだというだけの事を話した。ひどく尊敬しているらしい口調で話して、その外の事は言わずにしまった。丁度親・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫