・・・何しろ横浜のメリケン波戸場の事だから、些か恰好の異った人間たちが、沢山、気取ってブラついていた。私はその時、私がどんな階級に属しているか、民平――これは私の仇名なんだが――それは失礼じゃないか、などと云うことはすっかり忘れて歩いていた。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・尻尾なんかブラ下げて歩きゃしねえからな。駄目だよ。そんなに俺の後ろ頭ばかり見てたって。ホラ、二人で何か相談してる。ヘッ、そんなに鼻ばかりピクピクさせる事あないよ。いけねえ。こんなことを考える時ゃ碌な事あねえんだ。サテ」「下り、下の関行う・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・「チェッ、電気ブランでも飲んで来やがったんだぜ。間抜け奴!」「当り前よ。当り前で飲んでて酔える訳はねえや。強い奴を腹ん中へ入れといて、上下から焙りゃこそ、あの位に酔っ払えるんじゃねえか」「うまくやってやがらあ、奴あ、明日は俺達よ・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・ 橋の上に来て左右を見わたすと、幅の広い水がだぶりだぶりと風にゆさぶられて居るのが、大きな壮快な感じがする。年が年中六畳の間に立て籠って居る病人にはこれ位の広さでも実際壮大な感じがする。舟はいくつも上下して居るが、帆を張って遡って行く舟・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・幾里の登り阪を草鞋のあら緒にくわれて見知らぬ順礼の介抱に他生の縁を感じ馬子に叱られ駕籠舁に嘲られながらぶらりぶらりと急がぬ旅路に白雲を踏み草花を摘む。実にやもののあわれはこれよりぞ知るべき。はた十銭のはたごに六部道者と合い宿の寝言は熟眠を驚・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ そのうすくらい仕事場を、オツベルは、大きな琥珀のパイプをくわえ、吹殻を藁に落さないよう、眼を細くして気をつけながら、両手を背中に組みあわせて、ぶらぶら往ったり来たりする。 小屋はずいぶん頑丈で、学校ぐらいもあるのだが、何せ新式稲扱・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・ とうとう薄い鋼の空に、ピチリと裂罅がはいって、まっ二つに開き、その裂け目から、あやしい長い腕がたくさんぶら下って、烏を握んで空の天井の向う側へ持って行こうとします。烏の義勇艦隊はもう総掛りです。みんな急いで黒い股引をはいて一生けん命宙・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・たよりとし、男として愛するから良人としての関係にいるのか月給袋をもって来るから旦那様として大事に扱われるのか、そのところが生活の心持で分明をかいているというような女らしさには、可憐というよりは重く肩にぶら下る負担を感じているであろう。 ・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
・・・一太一人で納豆籠をぶらくって通ると、誰かが、「一ちゃんおいで」と呼んだ。米屋の善どんは眉毛も着物も真白鼠で、働きながら、「今かえんのかい?」と訊いた。「うん」 一太は立ちどまって、善さんが南京袋をかついで来ては荷車に・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 目醒めて来たとは、ブラボー! 何と目醒めた爺さんであることよ。私は思わず破顔しその予想もしない斬新な表現で一層照された二人の学生の近代人的神経質さにも微笑した。然し――私は堅い三等のベンチの上で揺られながら考えた。この四角い帽子をいた・・・ 宮本百合子 「北へ行く」
出典:青空文庫