・・・そういう人は人の仕事をくさしながらも自分で何かしら仕事をして、そうして学界にいくぶんの貢献をする。しかしもういっそう頭がよくて、自分の仕事のあらも見えるという人がある。そういう人になると、どこまで研究しても結末がつかない。それで結局研究の結・・・ 寺田寅彦 「科学者とあたま」
・・・河畔の柳の樹に馬を繋いで、鉛筆で遺書を書いてそいつを鞍に挟んでおいて、自分は鉄橋を渉って真中からどぶんと飛込んじゃった。残念でならんがだ。」爺さんは調子に乗って来ると、時々お国訛りが出た。「そこへ上官が二人通りあわせて、乗棄ててある馬を・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・ はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際自分でやるとなると、たかがこんにゃく売りくらいでも、なかなか骨が折れるものだ。 ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・「ずいぶん、ごねっしんね」 低声で嫁さんがいうと、「え」 と三吉が、真顔でこたえ、嫁さんがまたふきだすと、三吉も一緒にわらった。 嫁にきて間がない深水の細君は、眼も、口も、鼻も、そろって小さく、まるい顔して、ころころにふ・・・ 徳永直 「白い道」
・・・高橋君のところは去年の旱魃がいちばんひどかったそうだから今年はずいぶん難儀するだろう。それへ較べたらうちなんかは半分でもいくらでも穫れたのだからいい方だ。今年は肥料だのすっかり僕が考えてきっと去年の埋め合せを付ける。実習は苗代掘りだった。去・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・老人はじぶんでとりに行く風だった。(いいえ。さっきの泉で洗いますから、下駄をお借老人は新らしい山桐の下駄とも一つ縄緒の栗の木下駄を気の毒そうに一つもって来た。(いいえもう結構 二人はわらじを解いてそれからほこりでいっぱいになった・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・始めこそ面白半ぶんにからかって居たからこそ、ほんとになっては面白いどころのさわぎではない。顔をまっかにしてたたかう。敵はますます勢がよくついてくる。こっちはますますおじけづいて思うように手も出ない。だんだん垣根の方においつめられてとうていか・・・ 宮本百合子 「三年前」
・・・お前、馬が横倒しにどぶんと水の中へはまりよったら見い、馬ったら豪いものや。くれんといっぺんに起き返りよるな。ありゃ! 何んじゃ、お前安次やして!」「さっき来たんやが、お前いやせんだ。」 安次は怒った肩を撫でながら縁に腰を下ろした。・・・ 横光利一 「南北」
・・・濃淡の具合も申しぶんがない。――しかし難を言えば、どうも湯の色が冷たい。透明を示すため横線を並べた湯の描き方も、滑らかに重い温泉の感じを消している。それに湯に浸った女の顔が全体の気分と調和しない。あの首を前へ垂れた格好も、少し無理である。・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・このぶんならたいてい大丈夫だと安心した気持ちになる。 しかし時間はいっぱいだった。市街電車へ乗り換える所へ来て、改札口で乗越賃を払おうとすると、釣銭がないと言って駅夫が向こうへ取りに行く。釣銭などでグズグズしてはいられないのでそのまます・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫