・・・されどわれを煩悩の闇路よりすくいいでたまいし君、心の中には片時も忘れ侍らず」「近ごろ日本の風俗書きしふみ一つ二つ買わせて読みしに、おん国にては親の結ぶ縁ありて、まことの愛知らぬ夫婦多しと、こなたの旅人のいやしむようにしるしたるありしが、・・・ 森鴎外 「文づかい」
・・・ 押丁共は返事の代りに足でツァウォツキイを蹴った。その時胸から小刀が抜けてはならないので、一人の押丁が柄を押さえていた。 二 ツァウォツキイは十六年間浄火の中にいた。浄火と云うものは燃えているものだと云うのは、大・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 言いきって母は返辞を待皃に忍藻の顔を見つめるので忍藻も仕方なさそうに、挨拶したが、それもわずかに一言だ。「さもそうず」 母もおぼつかない挨拶だと思うような顔つきをしていたがさすがになお強いてとも言いかね、やがてやや傾いた月を見・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 彼女は馭者部屋を覗いて呼んだが返事がない。「馬車はまだかのう?」 歪んだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶がひとり静に流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。「馬車はまだかの?」・・・ 横光利一 「蠅」
・・・その声が思ったより高く一間の中に響き渡ると、返事をするようにどの隅からもうめきや、寝返りの音や、長椅子のぎいぎい鳴る音や、たわいもない囈語が聞える。 フィンクは暫くぼんやり立っていた。そしてこう思った。なるほどどこにもかしこにも、もう人・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・というふうな返事を聞いたようにも思う。しかしその点ははっきりとは覚えていない。覚えているのは漱石を横浜までつれ出すにはどうしたらよかろうと苦心したことである。あらかじめ三渓園の都合をきいて、日をきめて訪ねて行く、という方法を取るのでは、漱石・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫