・・・写真、べそかいてる? そうかなあ。微笑したところなんだがなあ。約束、わすれた? あ、ちょいと、ちょいと。これは、新聞さがして持って来て呉れたお礼ですよ。まったく気がるに、またも二、三円を乱費して、ふと姉を思い、荒っぽい嗚咽が、ぐしゃっと鼻に・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・そのとき、高橋の顔に、三歳くらいの童子の泣きべそに似た表情が一瞬ぱっと開くより早く消えうせた。『まるで気違いみたいだろう?』ともちまえの甘えるような鼻声で言って、寒いほど高貴の笑顔に化していった。私は、医師を呼び、あくる日、精神病院に入院さ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・変心 田島は、泣きべその顔になる。思えば、思うほど、自分ひとりの力では、到底、処理の仕様が無い。金ですむ事なら、わけないけれども、女たちが、それだけで引下るようにも思えない。「いま考えると、まるで僕は狂っていたみたいな・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・あまりにも失礼な、恐しい質問なので、言いかけた当の私が、べそをかいた。「きのう迄は、あったんだよ。要らなくなったから、売っちゃった。シャツなら、あるさ。」と無邪気な口調で言って、足もとの草原から、かなり上等らしい駱駝色のアンダアシャツを・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・私は、泣きべそかいて馬を見ている。あの悪童たちが、うらやましくて、うらやましくて、自分ひとりが地獄の思いであったのだ。いつか私は、この事を或る先輩に言ったところが、その先輩は、それは民衆へのあこがれというものだ、と教えてくれた。してみると、・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・ 自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、泣きべそをかくことだろう。それほど私は、本に書かれてある事に頼っている。一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみ・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・私は買物は、下手なほうではなかったのですけど、このごろは、肉もおさかなも、なんにも買えませんので、市場で買物籠さげて立ったまま泣きべそを掻く事があります。」したたかに、しょげている。 私は自分の頓馬を恥じた。海苔が無いとは知らなかった。・・・ 太宰治 「新郎」
・・・ミケランジェロは、卑屈な泣きべその努力で、無智ではあったが、神の存在を触知し得た。どちらが、よけい苦しかったか、私は知らない。けれども、ミケランジェロの、こんな作品には、どこかしら神の助力が感じられてならぬのだ、人の作品でないところが在るの・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・太宰は瞬間まったくの小児のような泣きべそを掻いたが、すぐ、どす黒い唇を引きしめて、傲然と頭をもたげた。私はふっと、太宰の顔を好きに思った。佐竹は眼をかるくつぶって眠ったふりをしていた。 雨は晩になってもやまなかった。私は馬場とふたり、本・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ 口を小さくあけて、嬰児のようなべそを掻いて、私をちらと振りむいた。すっと落ちた。足をしたにしてまっすぐに落ちた。ぱっと裾がひろがった。「なに見てござる?」 私は、落ちついてふりむいた。山のきこりが、ひっそり立っていた。「女・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
出典:青空文庫