・・・ その……饂飩二ぜんの昨夜を、むかし弥次郎、喜多八が、夕旅籠の蕎麦二ぜんに思い較べた。いささか仰山だが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。 日あしも木曾の山の端に傾いた。宿には一時雨さっとかかっ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・人形使 そ、そんな、尻べたや、土性骨ばかりでは埒明かねえ、頭も耳も構わずと打叩くんだ。夫人 畜生、畜生、畜生。(自分を制せず、魔に魅入られたるもののごとく、踊りかかり、飛び上り、髪乱れ、色あおざむ。打ああ、切ない、苦しい。苦しい、切・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・休日などにべたくさ造りちらかすのはおらア大きらい。はま公もおとよさん好きだっけなア。まねろまねろ。仕事もおとよさんのように達者でなけゃだめだなア」「や、これや旦那はえいことをいわっしゃった。おはまさんは何でも旦那に帯でも着物でもどしどし・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・二葉亭が遊戯分子というは西鶴や其蹟、三馬や京伝の文学ばかりを指すのではない、支那の屈原や司馬長卿、降って六朝は本より唐宋以下の内容の空虚な、貧弱な、美くしい文字ばかりを聯べた文学に慊らなかった。それ故に外国文学に対してもまた、十分渠らの文学・・・ 内田魯庵 「二葉亭四迷」
・・・障子の桟にはべたッと埃がへばりつき、天井には蜘蛛の巣がいくつも、押入れには汚れ物がいっぱいあった。……お君が嫁いだ後、金助は手伝い婆さんを雇って家の中を任せていたのだが、選りによって婆さんは腰が曲り、耳も遠かった。「このたびはえらい御不・・・ 織田作之助 「雨」
・・・オールサービスべたモーション。すすり泣くオールトーキ」と歌うように言って、「――ショートタイムで帰った客はないんだから」 色の蒼白い男だが、ペラペラと喋る唇はへんに濁った赤さだった。「だめだ。今夜は生憎ギラがサクイんだ」 ギ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・けれども彼は、思い掛けぬ私の万歳にこぼれ落ちるような喜びを雨に濡れた顔一杯泛べた。よくも万歳をいってくれたなアという嬉しさがありありと見えた。孤独なSよ、しかし君はいまは聖なる日本の兵隊だ。そう思ってSの顔を見ようとしたが、私の眼はもはやぼ・・・ 織田作之助 「面会」
・・・こういったようなことを、述べたのだ。しかし彼の態度や調子は、いかにも明るくて、軽快で、そしてまた芸術家らしい純情さが溢れていたので、少なくとも私だけには、不調和な感じを与えなかった。「大出来だ! 彼かならずしも鈍骨と言うべからず……」私もつ・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・学生の間に流行っているらしい太いズボン、変にべたっとした赤靴。その他。その他。私の弱った身体にかなわないのはその悪趣味です。なにげなくやっているのだったら腹も立ちません。必要に迫られてのことだったら好意すら持てます。然しそうだとは決して思え・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 二郎は病を養うためにまた多少の経画あるがためにと述べたり、されどその経画なるものの委細は語らざりき。人々もまたこれを怪しまざるようなり。かれが支店の南洋にあるを知れる友らはかれ自らその所有の船に乗りて南洋に赴くを怪しまぬも理ならずや。・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
出典:青空文庫