・・・ そのうちに二十前後の支那人は帳簿へペンを走らせながら、目も挙げずに彼へ話しかけた。「アアル・ユウ・ミスタア・ヘンリイ・バレット・アアント・ユウ?」 半三郎はびっくりした。が、出来るだけ悠然と北京官話の返事をした。「我はこれ日本・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・半之丞はこの金を握るが早いか、腕時計を買ったり、背広を拵えたり、「青ペン」のお松と「お」の字町へ行ったり、たちまち豪奢を極め出しました。「青ペン」と言うのは亜鉛屋根に青ペンキを塗った達磨茶屋です。当時は今ほど東京風にならず、軒には糸瓜なども・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・自分は気乗のしないのを、無理にペンだけ動かしつづけた。けれども多加志の泣き声はとかく神経にさわり勝ちだった。のみならず多加志が泣きやんだと思うと、今度は二つ年上の比呂志も思い切り、大声に泣き出したりした。 神経にさわることはそればかりで・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・ けれど、平常ペンを採っていて、この色、この臭いを今考える程強く書いたことはなかった。 また、かゝる日に自己の興を求めて殺生した事実について考えさせられたこともなかった。 真面目に自己というものを考える時は常に色彩について、嗅覚・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・自分は、常の如く、机の前に坐って、毎日同じようにペンを採っているうちに、いつしか、ひとりでに年を取ってしまったのでした。とは、いうもの、この間、街頭の響きから、人間との接触から、そこに感じられた複雑な人生の幾多の変遷と推移が、文壇の上にも、・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・ 少しの貯えもなく、家庭に欠乏を告げているにかゝわらず、机に向って、自分の理想を描こうとする――そこには、精神だけの飛躍が許されるとしても、直にペンを下に置いたと同時に、物質の欠乏から来る不安と悩みが感じられる。この二重の苦痛に悶々とし・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
・・・では、昼間食事の時に頼めばよいということになるが、茶の間にはペンがない。二階の書斎まで取りに行くのが面倒くさい。取りに上らせようと思っているうちに、もう忘れてしまう。 それでも、さすがに金がなくなって来ると、あわてて家政婦に行かせるのだ・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・今宮は貧民の街であり、ルンペンの巣窟である。彼女はそれらのルンペン相手に稼ぐけちくさい売笑婦に過ぎない。ルンペンにもまたそれ相応の饗宴がある。ガード下の空地に茣蓙を敷き、ゴミ箱から漁って来た残飯を肴に泡盛や焼酎を飲んでさわぐのだが、たまたま・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ルンペンだよ」 小沢はひょいと言ったが、さすがに弱った声だった。「宿無しだよ。ルンペンだよ」 と、語呂よく、調子よく、ひょいと飛び出した言葉だが、しかしその調子の軽さにくらべて、心はぐっしょり濡れた靴のように重かった。 小沢・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・彼は書きかけの原稿やペンやインキなど入れた木通の籠を持ち、尋常二年生の彼の長男は書籍や学校道具を入れた鞄を肩へかけて、袴を穿いていた。幾日も放ったらかしてあった七つになる長女の髪をいゝ加減に束ねてやって、彼は手をひいて、三人は夜の賑かな人通・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫