・・・それは恋愛の冷却というべきものではなくして、自然の飽和と見るべきものだ。少なくともそれはニイチェのいうような、一層高いものに、転生するための恋愛の没落なのだ。そこには恋愛のような甘く酔わせるものはないが、もっと深いかみしめらるべき、しみじみ・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・あらゆる努力の飽和状態におちいるのである。もう、もう、なんでも、どうでも、よくなって来る。ついには、ええっ! と、やけくそになって、味でも体裁でも、めちゃめちゃに、投げとばして、ばたばたやってしまって、じつに不機嫌な顔して、お客に差し出す。・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・たぶん温度が急激に降下するときに随伴する感覚であって、しかもそれはすぐに飽和される性質のものであるから、この感覚を継続させるためには結局週期的の変化が必要になると考えられる。 子供の時分、暑い盛りに背中へ沢山の灸をすえられた経験があるが・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・ それはとにかく、学生時代に試験が無事にすんだあとの数日間はいつでも特別に空の色が青く日光が澄み切って輝き草木の色彩が飽和して見えた、それと同じように、研究所の講演会のすんだあとの数日は東京市の地と空とが妙にいつもより美しく見えるようで・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ 分光器にかけて分析した帝展の日本画が果してみんなそれぞれに充分飽和した特色を含んでいるだろうか。それともいくら分析してもどこまでも不飽和な寝惚けた鼠色に過ぎないだろうか。この疑問に答える前には先ず分光器それ自身の検査が必要になる。・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・それは乾燥したさわやかな暑さとちがって水蒸気で飽和された重々しい暑さであった。「いつでもまるで海老をうでたように眼の中まで真赤になっていた」という母の思い出話をよく聞かされた。もっとも虫捕りに涼しいのもあった。朝まだ暗いうちに旧城の青苔滑ら・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・乾期で冬が湿期に相当する地方だとちょうどいいわけであるが、日本はちょうど反対で夏はたださえ多い湿気が室内に入り込んで冷却し相対湿度を高めたがっているのであるから、屋内の壁の冷え方がひどければひどいほど飽和がひどくなってコンクリート壁は一種の・・・ 寺田寅彦 「日本人の自然観」
・・・セピヤ色の水分をもって飽和したる空気の中にぼんやり立って眺めている。二十世紀の倫敦がわが心の裏から次第に消え去ると同時に眼前の塔影が幻のごとき過去の歴史を吾が脳裏に描き出して来る。朝起きて啜る渋茶に立つ煙りの寝足らぬ夢の尾を曳くように感ぜら・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 飛び交う数字と一種名状すべからざる緊張した熱意で飽和している空気の中をそっと、一人の婦人党員が舞台から日本女のところへきた。彼女は日本女の耳に口をつけて云った。 ――ようこそ! どこからです? ――日本から。 囁きかえした・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ 護国寺の紅葉や銀杏の黄色い葉が飽和した秋の末の色を湛えるようになった。或日、交叉点よりの本屋によった。丁度、仕入れして来たばかりの主人が、しきりに、いろんな本を帳場に坐っている粋なおかみさんにしまわせている。「こんなのもいい本・・・ 宮本百合子 「「青眉抄」について」
出典:青空文庫