・・・ 三 その夜の十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る火影を口惜しそうに見つめていました。「折角御嬢さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。一そ警察・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・彼は赤い篝の火影に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交しながら、車座をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな桶を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろに・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・、その跡を御追いなすった事、今ではあなたの御家族の中でも、たった一人姫君だけが、奈良の伯母御前の御住居に、人目を忍んでいらっしゃる事、――そう云う御話をしている内に、わたしの眼にはいつのまにか、燈台の火影が曇って来ました。軒先の簾、廚子の上・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・舞台には桜の釣り枝がある。火影の多い町の書割がある。その中に二銭の団洲と呼ばれた、和光の不破伴左衛門が、編笠を片手に見得をしている。少年は舞台に見入ったまま、ほとんど息さえもつこうとしない。彼にもそんな時代があった。……「余興やめ! 幕・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・皆のもの――宇左衛門は、気づかわしそうに膝を進めて、行燈の火影に恐る恐る、修理の眼の中を窺った。 三 刃傷 延享四年八月十五日の朝、五つ時過ぎに、修理は、殿中で、何の恩怨もない。肥後国熊本の城主、細川越中守宗教を殺害・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・二階の窓からは、淡い火影がさして、白楊の枝から枝にかけてあった洗たく物も、もうすっかり取りこまれていた。 通信部はそれからも、つづいて開いた。前記の諸君を除いて、平塚君、国富君、砂岡君、清水君、依田君、七条君、下村君、その他今は僕が・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・殊に車が両国橋へさしかかった時、国技館の天に朧銀の縁をとった黒い雲が重なり合って、広い大川の水面に蜆蝶の翼のような帆影が群っているのを眺めると、新蔵はいよいよ自分とお敏との生死の分れ目が近づいたような、悲壮な感激に動かされて、思わず涙さえ浮・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・らむらと沈んだ、燻った、その癖、師走空に澄透って、蒼白い陰気な灯の前を、ちらりちらりと冷たい魂がさまよう姿で、耄碌頭布の皺から、押立てた古服の襟許から、汚れた襟巻の襞ひだの中から、朦朧と顕れて、揺れる火影に入乱れる処を、ブンブンと唸って来て・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・省作は庭場の上がり口へ回ってみると煤けて赤くなった障子へ火影が映って油紙を透かしたように赤濁りに明るい。障子の外から省作が、「今晩は、お湯をもらいに出ました」「まア省作さんですかい。ちとお上がんさい。今大話があるとこです」 とい・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・そして、毎晩のように、そのお宮にあがった蝋燭の火影がちらちらと揺めいていますのが、遠い海の上から望まれたのであります。 ある夜のことでありました。お婆さんはお爺さんに向って、「私達がこうして、暮らしているのもみんな神様のお蔭だ。この・・・ 小川未明 「赤い蝋燭と人魚」
出典:青空文庫