・・・そして着いた夜あるホテルへ泊まるんですが、夜中にふと眼をさましてそれからすぐ寝つけないで、深夜の闇のなかに旅情を感じながら窓の外を眺めるんです。空は美しい星空で、その下にウィーンの市が眠っている。その男はしばらくその夜景に眺め耽っていたが、・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・私が聴いたのは何週間にもわたる六回の連続音楽会であったが、それはホテルのホールが会場だったので聴衆も少なく、そのため静かなこんもりした感じのなかで聴くことができた。回数を積むにつれて私は会場にも、周囲の聴衆の頭や横顔の恰好にも慣れて、教室へ・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・会は非常な盛会で、中には伯爵家の令嬢なども見えていましたが夜の十時頃漸く散会になり僕はホテルから芝山内の少女の宅まで、月が佳いから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらと行って来ると、途々母は口を極めて洋行夫婦を褒め頻と羨ましそうなことを言・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・自動車は、本牧の、とあるホテルのまえにとまった。ナポレオンに似たひとだな、と思っていたら、やがてその女のひとの寝室に案内され枕もとを見ると、ナポレオンの写真がちゃんと飾られていた。誰しもそう思うのだなと、やっとうれしく、あたたかくなって来た・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・そのころは、毎夜、帝国ホテルにとまっていました。やはり作家、海野三千雄の名前で。名刺もつくらせ、それからホテルの海野先生へ、ゲンコウタノムの電報、速達、電話、すべて私自身で発して居りました。 ――不愉快なことをしたものだね。 ――厳・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・数時間のち、須々木乙彦は、内幸町、帝国ホテルのまえに立っていた。鼠いろのこまかい縞目の袷に、黒無地のセルの羽織を着て立っていた。ドアを押して中へはいり、「部屋を貸して呉れないか。」「は、お泊りで?」「そうだ。」 浴室附のシン・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ ホテルに帰ったのは、午前六時であった。自動車のテクサメエトルを見たら五の所に針が行っていた。それをどう云うものだか、ショッフヨオルの先生が十二の所へそっと廻した。なんだか面倒になりそうだから、おれは十五に相当する金をやった。部屋に這入・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・しかし池畔からホテルへのドライヴウェーは、亭々たる喬木の林を切開いて近頃出来上がったばかりだそうであるが、樹々も路面もしっとり雨を含んで見るからに冷涼の気が肌に迫る。道路の真中に大きな樹のあるのを切残してあるのも愉快である。 スイスあた・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・「烏賊」ホテルの酒場のガラス窓越しに、話す男女の口の動きだけを見せるところは、「パリの屋根の下」の一場面を思いだす。 メッサーの手下が婚礼式場用の椅子や時計を盗みだすところはわりによくできている。くどく、あくどくならないところがうまいの・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・これだけで芝居のうそが生かされて熱砂の海が眼前に広げられる。ホテルの一室で人が対話していると、窓越しに見える遠見の屋上でアラビア人のアルラーにささげる祈りの歌が聞こえる。すると平凡な一室が突然テヘランの町の一角に飛んで行く。こういう効果はお・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
出典:青空文庫