・・・思う尻から自分は顔が熱くなって来たのを感じた。 係りは自分の名前をなかなか呼ばなかった。少し愚図過ぎた。小切手を渡した係りの前へ二度ばかりも示威運動をしに行った。とうとうしまいに自分は係りに口を利いた。小切手は中途の係りがぼんやりしてい・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・風落ちたれど波なお高く沖は雷の轟くようなる音し磯打つ波砕けて飛沫雨のごとし。人々荒跡を見廻るうち小舟一艘岩の上に打上げられてなかば砕けしまま残れるを見出しぬ。「誰の舟ぞ」問屋の主人らしき男問う。「源叔父の舟にまぎれなし」若者の一人答・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・ 兵士は撃った、あまりにはげしい射撃に銃身が熱くなった。だが弾丸は、悉く、一里もさきの空へ向ってとび上った。そこで人を殺す威力を失って遙か向うの草原に落下した。機関銃ばかりでなく、そこらの歩兵銃も空の方へそのつつさきを向けていたのだ。・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・ 焔はちろちろ燃えて、少しずつ少しずつ短かくなって行くけれども、私はちっとも眠くならず、またコップ酒の酔いもさめるどころか、五体を熱くして、ずんずん私を大胆にするばかりなのである。 思わず、私は溜息をもらした。「足袋をおぬぎにな・・・ 太宰治 「朝」
・・・ われながら愚かしい意見だとは思ったが、言っているうちに、眼が熱くなって来た。「竹内トキさん。」 と局員が呼ぶ。「あい。」 と答えて、爺さんはベンチから立ち上る。みんな飲んでしまいなさい、と私はよっぽどかれに言ってやろう・・・ 太宰治 「親という二字」
・・・四十二度にと云えば、そんなに熱くてもいいのかと驚きはするが、ちゃんと四十二度プラスマイナス〇・何度にしてくれるのである。もちろんこれは湯沸しの装置がうまく出来ているから、そういう温度の調節が誰にでも容易に出来るのであって、われわれの家の原始・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・ なんだか非常に羨ましいような気がして同時に今まで出なかった涙が急に眼頭を熱くするのを感じた。 五 八十三で亡くなった母の葬儀も済んで後に母の居間の押入を片付けていたら、古いボールの菓子箱がいくつか積み重・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
・・・ 私は熱くなってこう答えた。「じゃあ何かい。あの女が誰のためにあんな目にあったのか知りたいのかい。知りたきゃ教えてやってもいいよ。そりゃ金持ちと云う奴さ。分ったかい」 蛞蝓はそう云って憐れむような眼で私を見た。「どうだい。も・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 二等車では、誰も坐っていない座席に向って、煽風機が熱くなって唸っていた。 彼は煽風機の風下に腰を下した。空気と座席とが、そこには十分にあった。 焙られるような苦熱からは解放されたが、見当のつかない小僧は、彼に大きな衝撃を与えた・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・しかし、火がついて、下からそろそろ熱くなって来ると、ようやく、これは一大事というように騒ぎはじめるのである。しかし、もう追っつかない。そういうところが、どうも自分に似たところがあるので、私はドンコが好きで、棲家をも「鈍魚庵」とした次第である・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
出典:青空文庫