・・・ 二人は、思わず、ほろりとした。 宿の廊下づたいに、湯に行く橋がかりの欄干ずれに、その名樹の柿が、梢を暗く、紅日に照っている。 二羽。「雀がいる。」 その雀色時。「めじろですわ。」・・・ 泉鏡花 「若菜のうち」
・・・ ほろりとした声になった。女の子は夢中になって、ガツガツと食べると、「おっちゃん、うちミネちゃん言うねん。年は九つ」 いじらしい許りの自己紹介だった。「ふーん。ミネちゃんのお父つぁんやお母はんは……?」 きくと、ミネ子は・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・その目からは、老人の手の上に涙がほろりと落ちて来た。老人は始めて青年の心が分かって自分も目が覚めた。老人は屈めた項を反らした。そして青年を見くびったような顔をして、口に排斥するような笑を浮べた。ほんに馬鹿な事をした。向うで人に憐を乞うような・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・自分は袖を翳して何だかほろりとなった。 しかし自分は藤さんについてはついにこれだけしか知らないのである。ああして不意に帰ったのはどういう訳であったのか、それさえとうと聞かないずくであった。その後どこにどうしているのか、それも知らない。何・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・私は、ほろりとした。「たぶん、大丈夫だろうと思います。北京から送られて来た写真を見ましたが、あれ以上進捗していないようです。なんでも、いまは、イタリヤ製のいい薬があるそうですし、それに先方の小坂吉之助氏だって、ずいぶん見事な、――」・・・ 太宰治 「佳日」
・・・真剣な、ほろりとするような声であった。「ありがとう。」佐伯も上品に軽くお辞儀をして、「熊本が、いつもこんなに優しく勇敢であるように祈っています。」「佐伯君にも、熊本君にも欠点があります。僕にも、欠点があります。助け合って行きたいと思・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ひとりで、ほろりとする。」「宿屋へ着く。もう、夕方だね。」「風呂へはいるところあたりから、そろそろ重大になって来るね。」「もちろん一緒には、はいらないね? どうする?」「一緒には、どうしてもはいれない。僕がさきだ。ひと風呂浴・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・ 彼女は、あやまるように、ほろりとする千代を励した。そして、最後に今朝買って来た紙包をとり出した彼女は、せかせか言葉を間違えたり、つかえたりしながら云った。「あのね、これはちっともよくないんだけれど、平常着になるような羽織地だからね・・・ 宮本百合子 「或る日」
出典:青空文庫