・・・この話はつくりごとでないから本名で書くが、その少年の名は林茂といった心の温かい少年で、私はいまでも尊敬している。家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 娘の本名はもとより知らず、家も佐竹とばかりで番地もわからない。雪の夜の名残は消えやすい雪のきえると共に、痕もなく消去ってしまったのである。巷に雨のふるやうにわが心にも雨のふるという名高いヴェルレーヌの詩に傚って、も・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・うなものである、自転車屋には恩給年限がないのか知らんとちょっと不審を起してみる、思うにその年限は疾ッくの昔に来ていて今まで物置の隅に閑居静養を専らにした奴に違ない、計らざりき東洋の孤客に引きずり出され奔命に堪ずして悲鳴を上るに至っては自転車・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・という名にその本名を知る事が出来ぬのは遺憾である。……盾の話しはこの時代の事と思え。 この盾は何時の世のものとも知れぬ。パヴィースと云うて三角を倒まにして全身を蔽う位な大きさに作られたものとも違う。ギージという革紐にて肩から釣るす種類で・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ついに思いきった様子で、宛名は書かず、自分の本名のお里のさ印とのみ筆を加え、結び文にしてまた袂へ入れた。それでまたしばらく考えていた。 廊下の方に耳を澄ましながら、吉里は手箪笥の抽匣を行燈の前へ持ち出し、上の抽匣の底を探ッて、薄い紙包み・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・という名を知らないものはないけれども、その紫式部という婦人は何という本名だったのだろう。紫式部というよび名は宮廷のよび名である。大阪辺りの封建的な商家などで、女中さんの名前をお竹どんとかおうめどんにきめているところがあった。そういうふうな家・・・ 宮本百合子 「女性の歴史」
・・・モスクワのレーニン研究所所属レーニン博物館へ行ったものは、レーニンがウリヤーノフという本名で中学生だったころ、どんなに行状のよい優等生であったかを知るとともに、クレムリンに政府が引越して来てから、レーニンがどんな室に住んでいたかも、見ること・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
・・・はいわゆる文壇の内幕をあばき、私行を改め、代作横行を暴露し、それぞれの作家を本名で槍玉にあげたことを、文学的意味ではなく、文壇的意味において物議をかもし出したのであった。 ある作家、編輯者はこの作に対して公に龍胆寺に挑戦をしたり、雑誌の・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・ ナポレオン伝において、大革命につづく混乱期に列国の旧勢力とフランス内の旧勢力とがどのように結托して、名誉ある本命の血から帝政と王制復古の馬鈴薯を生やしたかという要が解剖されていないならば、こんにちの日本のわたしたちにとって読むべき真実・・・ 宮本百合子 「なぜ、それはそうであったか」
・・・不如意な窮屈な生活と闘い、自分ながら本名を出しかねるような三文小説を売りながらも、次第にバルザックは文学における自身の力をおぼろげに自覚しはじめたらしく思われる。彼は「自分の思想の一番いいところをこんな仕事に犠牲にしなければならないのは堪ら・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
出典:青空文庫