・・・それは間違いないのだ、呆けたのだ、けれども、――と言いかけて、あとは言わぬ。ただ、これだけは信じたまえ。「私は君を、裏切ることは無い。」 エゴが喪失してしまっているのだ。それから、――と言いかけて、これも言いたくなし。もう一つ言える。私・・・ 太宰治 「鴎」
・・・まだ要件をひとことも言わぬうちに、将棋を指したり、かげろうを捜したりしているおのれの呆け加減に気づいたのである。僕はあわてて坐り直した。「木下さん。困りますよ。」そう言って、例の熨斗袋を懐から出したのである。「これは、いただけません。」・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・「寝呆けていやがる。僕は、そんな名前じゃないよ。」「そうかね。じゃ、何だって、この川をはだかで泳いだりしたんだね?」「この川が、気に入ったからさ。それくらいの気まぐれは、ゆるしてくれたっていいじゃないか。」「へんな事を聞くよ・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・私は、わざと寝呆けたような声で尋ねた。ボオイは、ちらりと腕時計を見て、「もう、十分でございます。」と答えた。 私は、あわてた。何が何やら、わからなかった。鞄から毛糸の頸巻を取り出し、それを頸にぐるぐる巻いて甲板に出て見た。もう船は、・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・私は、少し寝呆けていた。「いいえ、」女中も笑っていた。「ちょっと、お目にかかりたいんですって。」 やっと思い出した。きのう一日のことが、つぎつぎに思い出されて、それでも、なんだか、はじめから終りまで全部、夢のようで、どうしても、事実・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・いまは、何やら苦しみに呆け、めっきり弱くなっているので、「黄金の波、苹果の頬。」という甘い言葉に乗せられ、故郷へのむかしの憎悪も、まるで忘れて、つい、うかうか、出席、と書いてしまった。それが、理由の三つ。 出席、と返事してしまってから、・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・に連れられ御所へあがって将軍家のお傍の御用を勤めるようになったのですが、あの時の火事で入道さまが将軍家よりおあずかりの貴い御文籍も何もかもすっかり灰にしてしまったとかで、御所へ参りましても、まるでもう呆けたようになって、ただ、だらだらと涙を・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・もがきあがいて、そのうちに、呆けてしまった。いまは、何も、わからない。いや、笠井さんの場合、何もわからないと、そう言ってしまっても、ウソなのである。ひとつ、わかっている。一寸さきは闇だということだけが、わかっている。あとは、もう、何もわから・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・それから何かのおりに、竹の切れはしで、木瓜の木をやたらにたたきながら、同じ言葉を繰り返し繰り返しどなっていた姿を思い出す。その時の妙に仙骨を帯びた顔をありあり見るように思うが、これはあるいは私の錯覚であるかもしれない。またある時はのらねこを・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・ 蕪村の句の絵画的なるものは枚挙すべきにあらねど、十余句を挙ぐれば木瓜の陰に顔たくひすむ雉かな釣鐘にとまりて眠る胡蝶かなやぶ入や鉄漿もらひ来る傘の下小原女の五人揃ふて袷かな照射してさゝやく近江八幡かな葉うら/・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫