・・・その隣の窓では一人の男がぼんやり手摺から身体を乗り出していた。そのまた隣の、一番よく見える窓のなかには、箪笥などに並んで燈明の灯った仏壇が壁ぎわに立っているのであった。石田にはそれらの部屋を区切っている壁というものがはかなく悲しく見えた。も・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ばアさん、泣きの涙かなんかでかあいい男を新橋まで送ったのは、今から思うと滑稽だが、かあいそうだ、それでなくてあの気の抜けたような樋口がますますぼんやりして青くなって、鸚鵡のかごといっしょに人車に乗って、あの薄ぎたない門を出てゆく後ろ姿は、ま・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・ 将校は血のついた軍刀をさげたまゝ、再び軍刀をあびせかけるその方法がないものゝように、ぼんやり老人を見た。 兵卒は、思わず、恐怖から身震いしながら二三歩うしろへ退いた。伍長が這い上って来る老人を、靴で穴の中へ蹴落した。「俺れゃ生・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・活動常設館の前に来たとき入口のボックスに青い事務服を着た札売の女が往来をぼんやり見ていた。龍介はちょっと活動写真はどうだろうと思った。が、初めの五分も見れば、それがどういうプロセスで、どうなってゆくか、ということがすぐ見透く写真ばかりでは救・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・ええ、なんだって己は、まだぼんやり立っていて、どうのこうのと思案をしているのだろう。まあ、己はなんというけちな野郎だろう。」 熱い同情が老人の胸の底から涌き上がった。その体は忽ち小さくなって、頭がぐたりと前に垂れて、両肩がすぼんで、背中・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ギンは、「何をぼんやりしているの。早く馬をつかまえてお出でよ。」と、もって来た手袋の先でじょうだんにちょいと肩をたたきました。「まあ、あなたはこれで一つ私をおぶちになりましたよ。私が何の悪いこともしないのに。」 女はため息をつき・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
・・・近頃、次第に募って来た、ぼんやりとした恐しさで、彼女は物の云えない獣のように、父や母につきまといました。大きな眼を見開いて、いかにも何か知りたそうに、親達の顔を眺めます。けれども、彼等は只一言も恵んでは呉れませんでした。 斯様な事のある・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・、不思議なくらい美しく、そのころ姉たちが読んでいた少女雑誌に、フキヤ・コウジとかいう人の画いた、眼の大きい、からだの細い少女の口絵が毎月出ていましたけれど、兄の顔は、あの少女の顔にそっくりで、私は時々ぼんやり、その兄の顔を眺めていて、ねたま・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ 私は無我無心でぼんやりしていた。ただ身体中の毛穴から暖かい日光を吸い込んで、それがこのしなびた肉体の中に滲み込んで行くような心持をかすかに自覚しているだけであった。 ふと気がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙が落ち・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・はるか上にある六甲つづきの山の姿が、ぼんやり曇んだ空に透けてみえた。「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。もちろん私一箇としては話題がありあまるほどたくさんあった。二人の生活の交渉点へ触れてゆく日になれば、語・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫