・・・しかし頭を上げて、地平線を望んだけれど、あちらに山の頂と、黒い森と、ぽつりぽつり人家を見るだけで、けっして、そのはてを見ることはできませんでした。また、青い空は、ますます高く、白い雲は、はるかに上を飛んでいるのであって、けっして、自分の頭の・・・ 小川未明 「曠野」
・・・黄色い花びらが床の間にぽつりぽつりと落ちた。私はショパンの「雨だれ」などを聴くのだった。そして煙草を吸うと、冷え冷えとした空気が煙といっしょに、口のなかにはいって行った。それがなぜともなしに物悲しかった。・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・こらならばと遠くお台所より伺えば御用はないとすげなく振り放しはされぬものの其角曰くまがれるを曲げてまがらぬ柳に受けるもやや古なれどどうも言われぬ取廻しに俊雄は成仏延引し父が奥殿深く秘めおいたる虎の子をぽつりぽつり背負って出て皆この真葛原下這・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・その若いひとは、それまでほとんど無言でいたのでしたが、ぽつりぽつり言いはじめ、「知っているのです。おれはね、あの大谷先生の詩のファンなのですよ。おれもね、詩を書いているのですがね。そのうち、大谷先生に見ていただこうと思っていたのですがね・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・見苦しく、われも実父も共に呆れ、孫左衛門殿逝去の後は、われその道を好むと雖も指南を乞うべき方便を知らず、なおまた身辺に世俗の雑用ようやく繁く、心ならずも次第にこの道より遠ざかり、父祖伝来の茶道具をも、ぽつりぽつりと売払い、いまは全く茶道と絶・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・垣根からのぞくと広々とした緑の海の上にぽつりぽつり白帆のように人影が見える。ゴルフをやらない人間から見ると、ゴルフをやっている人はみんな大貴族か大金持ちのように思われる。垣根ただ一重の内側の緑野は、自分らとは生涯なんの因縁もない別の世界のよ・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・夏中ぽつりぽつり咲いていたカンナが、今頃になって一時に満開の壮観を呈している。何とか云う名の洋紅色大輪のカンナも美しいが、しかし札幌円山公園の奥の草花園で見た鎗鶏頭の鮮紅色には及ばない。彼地の花の色は降霜に近づくほど次第に冴えて美しくなるそ・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・こんな事をぽつりぽつり話した。表通りへ出るとさすがに明るかった。床屋のガラス戸からもれる青白い水のような光や、水菓子屋の店先に並べられた緑や紅や黄の色彩は暗やみから出て来た目にまぶしいほどであった。しかしその隣の鍛冶屋の店には薄暗い電燈が一・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ その頃わたくしの家は生れた小石川から飯田町へ越していたので、何かの折、その辺を歩き過る時、ぽつりぽつりと前後なくその頃の事が思い出される。昨夜見た夢を覚めた後に思返すようなものだ。 浅草も今戸橋場あたりの河岸である。河水に浮べた舟・・・ 永井荷風 「向島」
出典:青空文庫