・・・赤坊の泣くのに困じ果てて妻はぽつりと淋しそうに玉蜀黍殻の雪囲いの影に立っていた。 足場が悪いから気を付けろといいながら彼の男は先きに立って国道から畦道に這入って行った。 大濤のようなうねりを見せた収穫後の畑地は、広く遠く荒涼として拡・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・時々ぽつりと来るのは――樹立は暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆蟹になりそうに見えるまで、濡々と森の梢を潜って、直線に高い。その途中、処々夏草の茂りに蔽われたのに、雲の影が映っ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・そして、もうすぐお寺が間近になった時分に、ぽつり、ぽつりと雨が落ちてきました。 あや子は帰ろうかと思いましたが、せっかくここまできて、買わずに帰るのが残念だという気がしましたので、急いでお寺へゆきますと、もういろいろな店は、片づきかけて・・・ 小川未明 「海ほおずき」
・・・言われた通り橋を渡って暫らく行くと、宿屋の灯がぽつりと見えた。風がそのあたりを吹いて渡り、遠いながめだった。 ふと、湯気のにおいが漂うて来た。光っていた木犀の香が消された。 風通しの良い部屋をと言うと、二階の薄汚い六畳へ通された。先・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・二匹で五円、闇市場の中では靴みがきに次ぐけちくさい商内だが、しかし、暗がりの中であえかに瞬いている青い光の暈のまわりに、夜のしずけさがしのび寄っているのを見た途端、私はそこだけが闇市場の喧騒からぽつりと離れて、そこだけが薄汚い、ややこしい闇・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・ふと見上げると、ひっそりした校舎の三階の窓にぽつりと一つ灯がついている。さっき見た時にはその灯はついていなかった筈だがとそっと水を浴びた想いに青く濡れた途端、その灯のついた深夜の教室に誰かが蠢いているように思った。いきなり窓がひらいてその灯・・・ 織田作之助 「道」
・・・しばらく、鏡の中の裸身を見つめているうちに、ぽつり、ぽつり、雨の降りはじめのように、あちら、こちらに、赤い小粒があらわれて、頸のまわり、胸から、腹から、背中のほうにまで、まわっている様子なので、合せ鏡して背中を写してみると、白い背中のスロオ・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・ つくづく呆れ、憎み、自分自身を殺したくさえなって、ええッ! と、やけくそになって書き出した、文字が、なんと、 懶惰の歌留多。 ぽつり、ぽつり、考え、考えしながら書いてゆく所存と見える。 い、夜の次には、朝が来る。・・・ 太宰治 「懶惰の歌留多」
・・・白木の宮に禰宜の鳴らす柏手が、森閑と立つ杉の梢に響いた時、見上げる空から、ぽつりと何やら額に落ちた。饂飩を煮る湯気が障子の破れから、吹いて、白く右へ靡いた頃から、午過ぎは雨かなとも思われた。 雑木林を小半里ほど来たら、怪しい空がとうとう・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・尤も私は親が生んだので、親はまたその親が生んだのですから、私は唯一人でぽつりと木の股から生れた訳ではない。そこでこういう問題が出て来る。人間は自分を通じて先祖を後世に伝える方便として生きているのか、または自分その者を後世に伝えるために生きて・・・ 夏目漱石 「無題」
出典:青空文庫