・・・それで、お君は、「あわれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文のいいかわし、毎夜毎夜の死覚悟、魂抜けてとぼとぼうかうか身をこがす……」 と、「紙治」のサワリなどをうたった。下手くそでもあったので、軽部は何か言いかけたが、・・・ 織田作之助 「雨」
・・・一つには、毎夜徹夜同然な生活をしているので、起きて食事を済まして、煙草を吸っているうちに、もう郵便局の時間がたってしまう。前の晩に頼めばいいというものの、彼は仕事に夢中でそんなことは忘れている。では、昼間食事の時に頼めばよいということになる・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ 喬はそんなことを思った。毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった。「街では自分は苦しい」 北には加茂の森が赤い鳥・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
断片 一 夜になるとその谷間は真黒な闇に呑まれてしまう。闇の底をごうごうと溪が流れている。私の毎夜下りてゆく浴場はその溪ぎわにあった。 浴場は石とセメントで築きあげた、地下牢のような感じの共同湯であった・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・君はこのごろ毎夜狂犬いでて年若き娘をのみ噛むちょううわさをききたまいしやと、妹はなれなれしくわれに問えり、問いの不思議なると問えるさまの唐突なるとにわれはあきれて微笑みぬ。姉はわが顔を見て笑いつ、愚かなることを言うぞと妹の耳を強く引きたり。・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児の時から種々な事に出遇う、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここに於てかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学で候うの科学で御座るのと言っ・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 四 村長は高山の依頼を言い出す機会の無いのに引きかえて校長細川繁は殆ど毎夜の如く富岡先生を訪うて十時過ぎ頃まで談話ている、談話をすると言うよりか寧ろその愚痴やら悪口やら気焔やら自慢噺やらの的になっている。先生・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・いや、大酒を飲むのは、毎夜の事であって、なにも珍らしい事ではないけれども、その日、仕事場からの帰りに、駅のところで久し振りの友人と逢い、さっそく私のなじみのおでんやに案内して大いに飲み、そろそろ酒が苦痛になりかけて来た時に、雑誌社の編輯者が・・・ 太宰治 「朝」
・・・ひとびとの情で一夏、千葉県船橋町、泥の海のすぐ近くに小さい家を借り、自炊の保養をすることができ、毎夜毎夜、寝巻をしぼる程の寝汗とたたかい、それでも仕事はしなければならず、毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよ・・・ 太宰治 「黄金風景」
・・・それからまもなく、れいのドカンドカン、シュウシュウがはじまりましたけれども、あの毎日毎夜の大混乱の中でも、私はやはり休むひまもなくあの人の手から、この人の手と、まるでリレー競走のバトンみたいに目まぐるしく渡り歩き、おかげでこのような皺くちゃ・・・ 太宰治 「貨幣」
出典:青空文庫