・・・と嬌優る目に父を見て、父様、もう負けはしませんよ。と笑いながらまた綱雄に向い、なぜもっと早く来て下さらなかッたの。あんまりだわ。私なんぞのことはすこしもお構いなさらないからひどいわ。あらいやな髭なんぞを生やして、と言いかけしがその時そこへ来・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・二郎はかの方に顔を負け、何も知りたまわぬかの君は、ただ一口に飲みたまえと命ずるように言いたもう、そのさまは、何をかの君かく誇りたもうぞと問わまほしゅうわが思いしほどなりき。貴嬢が眼を閉じて掌を口に当て、わずかに仰ぎたまいし宝丹はげに魂に沁み・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・そのように、トルストイという肥料から、あまり慾張ってそれを吸収しすぎると、こっちが、肥料負けがしてあぶない。 僕は、「三つの死」のみず/\しい、詩に、引きつけられた。「アンナ・カレニナ」「復活」などよりも、「戦争と平和」が好きだ。戦争を・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・しかしよしや大智深智でないまでも、相応に鋭い智慧才覚が、恐ろしい負けぬ気を後盾にしてまめに働き、どこかにコッツリとした、人には決して圧潰されぬもののあることを思わせる。 客は無雑作に、「奥さん。トいう訳だけで、ほかに何があったのでも・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・それなら俺だって却々負けずに知っている。実は、その日になると、俺は何時でも壁を打つことで、隣りの同志にイニシアチヴを取られてしまうのだ。今度こそ俺の方から先手を打ってやろう、と待っている、だが、その日になると、又もしてやられるんだ。――九月・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・んすと振り上げてぶつ真似のお霜の手を俊雄は執らえこれではなお済むまいと恋は追い追い下へ落ちてついにふたりが水と魚との交を隔て脈ある間はどちらからも血を吐かせて雪江が見て下されと紐鎖へ打たせた山村の定紋負けてはいぬとお霜が櫛へ蒔絵した日をもう・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「だれだい、負けた人は。」「僕だ。」と答えるのは三郎だ。「じゃんけんというと、いつでも僕が貧乏くじだ。」「さあ、負けた人は、郵便箱を見て来て。」と、私が言った。「もう太郎さんからなんとか言って来てもいいころだ。」「なあんだ、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・私はむしろ情負けをする性質である。先方の事情にすぐ安値な同情を寄せて、気の毒だ、かわいそうだと思う。それが動機で普通道徳の道を歩んでいる場合も多い。そしてこれが本当の道徳だとも思った。しかしだんだん種々の世故に遭遇するとともに、翻って考える・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・お前さんのそうしているところを見ると、わたし胸が痛くなるわ。珈琲店で、一人ぼっちでいるなんて。お負けにクリスマスの晩だのに。わたしパリイにいた時、婚礼をした連中が料理店に這入っていたのを見たことがあるのよ。お嫁さんは腰を掛けて滑稽雑誌を見て・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・次兄は、酒にも強く、親分気質の豪快な心を持っていて、けれども、決して酒に負けず、いつでも長兄の相談相手になって、まじめに物事を処理し、謙遜な人でありました。そうしてひそかに、吉井勇の、「紅燈に行きてふたたび帰らざる人をまことのわれと思ふや。・・・ 太宰治 「兄たち」
出典:青空文庫