・・・しかし兄の口惜しそうな眼つきは、今でもまざまざと見えるような気がする。兄はただ母に叱られたのが、癇癪に障っただけかも知れない。もう一歩臆測を逞くするのは、善くない事だと云う心もちもある。が、兄が地方へ行って以来、ふとあの眼つきを思い出すと、・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・』私は巻煙草の灰を舷の外に落しながら、あの生稲の雨の夜の記憶を、まざまざと心に描き出しました。が、三浦は澱みなく言を継いで、『これが僕にとっては、正に第一の打撃だった。僕は彼等の関係を肯定してやる根拠の一半を失ったのだから、勢い、前のような・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・自分が絵解きをした絵本、自分が手をとって習わせた難波津の歌、それから、自分が尾をつけた紙鳶――そう云う物も、まざまざと、自分の記憶に残っている。…… そうかと云って、「主」をそのままにして置けば、独り「家」が亡びるだけではない。「主」自・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・今でもあの荒涼とした石山とその上の曇った濁色の空とがまざまざと目にのこっている。 温かき心 中禅寺から足尾の町へ行く路がまだ古河橋の所へ来ない所に、川に沿うた、あばら家の一ならびがある。石をのせた屋根、こまいのあらわ・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・そこには死に対する Resignation と共にお前たちに対する根強い執着がまざまざと刻まれていた。それは物凄くさえあった。私は凄惨な感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。 愈々H海岸の病院に入院する日が来た。お前たちの母上は全快し・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・この時人が精力を搾って忘れようと勉めた二つの道は、まざまざと眼前に現われて、救いの道はただこの二つぞと、悪夢のごとく強く重く人の胸を圧するのである。六 人はいろいろな名によってこの二つの道を呼んでいる。アポロ、ディオニソスと・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・ ――このお話をすると、いまでも私は、まざまざとその景色が目に浮ぶ。―― ところで、いま言った古小路は、私の家から十町余りも離れていて、縁で視めても、二階から伸上っても、それに……地方の事だから、板葺屋根へ上ってしても、実は建連った・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・狭くはないから、肩摺れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが立停まる処を、抜けた。 下闇ながら――こっちももう、僅かの処だけれど、赤い猿が夥しいので、人恋しい。 で透かして見ると、判然とよく分った。 それ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・南海霊山の岩殿寺、奥の御堂の裏山に、一処咲満ちて、春たけなわな白光に、奇しき薫の漲った紫の菫の中に、白い山兎の飛ぶのを視つつ、病中の人を念じたのを、この時まざまざと、目前の雲に視て、輝く霊巌の台に対し、さしうつむくまで、心衷に、恭礼黙拝した・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・それを見つけた彼の母の、その驚き、そのうろたえ、悲しい声を絞って人を呼びながら引き上げたありさま、多くの姉妹らが泣き叫んで走り回ったさまが、まざまざと目に見るように思い出される。 三人が上がってきて、また一しきり、親子姉妹がいってかいな・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
出典:青空文庫