・・・と言う共同風呂がある、その温泉の石槽の中にまる一晩沈んでいた揚句、心臓痲痺を起して死んだのです。やはり「ふ」の字軒の主人の話によれば、隣の煙草屋の上さんが一人、当夜かれこれ十二時頃に共同風呂へはいりに行きました。この煙草屋の上さんは血の道か・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・それから脚には痲痺が起った。最後に長い嘴が痙攣的に二三度空を突いた。それが悲劇の終局であった。人間の死と変りない、刻薄な悲劇の終局であった。――一瞬の後、蜂は紅い庚申薔薇の底に、嘴を伸ばしたまま横わっていた。翅も脚もことごとく、香の高い花粉・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・道徳の与える損害は完全なる良心の麻痺である。 * 妄に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。 * 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・だから、東京に対する神経は麻痺し切つてゐるといつてもいゝ。従つて、東京の印象といふやうなことは、殆んど話すことがないのである。 しかし、こゝに幸せなことは、東京は変化の激しい都会である。例へばつい半年ほど前には、石の擬宝珠のあつた京橋も・・・ 芥川竜之介 「東京に生れて」
・・・これを嘲るのはその心霊の麻痺を白状するのである。僕の願は寧ろ、どうにかしてこの問を心から発したいのであります。ところがなかなかこの問は口から出ても心からは出ません。「我何処より来り、我何処にか往く、よく言う言葉であるが、矢張りこの問を発・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・総体の様子がどうも薄気味の悪いところで、私はこの坂に来て、武の家の前を通るたびにすぐ水滸伝の麻痺薬を思い出し、武松がやられました十字坡などを想い出したくらいです。 それですが、武から妙なことを言われて大いに不思議に思っている上に武の家に・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ヒルデブラントの道徳的価値盲の説のように、人間の傲慢、懶惰、偏執、欲情、麻痺、自敬の欠乏等によって真の道徳的真理を見る目が覆われているからだ。倫理学はこの道徳盲を克服して、あらゆる人と時と処とにおいて不易なる道徳的真理そのもの、ジットリヒカ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・彼等の四肢は麻痺してきだした。意識が遠くなりかけた。破れ小屋でもいい、それを見つけて一夜を明かしたい! だが、どこまで行っても雪ばかりだ。…… 最初に倒れたのは、松木だった。それから武石だった。 松木は、意識がぼっとして来たのは・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 小村は、脚が麻痺したようになって立上れなかった。「おい、逃げよう。」吉田が云った。「一寸、待ってくれ!」 小村はどうしても脚が立たなかった。「おじるこたない。大丈夫だ。」吉田は云った。「傍へよってくりゃ、うち殺してやる・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・やっぱり男は四十ちかくになると、羞恥心が多少麻痺して図々しくなっているものですね。十年前だったら、私はゆうべもう半狂乱で脱走してしまっていたでしょう。自殺したかも知れません。外八文字は、私がお詫びを言ったら、不機嫌そうに眉をひそめてちょっと・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫