・・・いや、むしろ積極的に、彼女が密かに抱いていた希望、――たといいかにはかなくとも、やはり希望には違いない、万一を期する心もちを打ち砕いたのも同様だった。男は道人がほのめかせたように、実際生きていないのであろうか? そう云えば彼女が住んでいた町・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・毎月の月給が晦日の晩になっても集金人が金を持って帰るまでは支払えなくて、九時過ぎまでも社員が待たされた事が珍らしくなかった。随って社員は月末の米屋酒屋の勘定どころか煙草銭にもしばしば差支えた。が、社長沼南は位置相当の門戸を構える必要があった・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ この河童の尻が、数え年二百歳か三百歳という未だうら若い青さに痩せていた頃、嘘八百と出鱈目仙人で狐狸かためた新手村では、信州にかくれもなき怪しげな年中行事が行われ、毎年大晦日の夜、氏神詣りの村人同志が境内の暗闇にまぎれて、互いに悪口を言・・・ 織田作之助 「猿飛佐助」
・・・また一方、毒瓦斯の出ない工場にはまた色々別の危険が潜伏していて、そうして密かに犠牲者の油断のすきを狙って爪を研いでいるであろう。それで、用心のいい人は毒瓦斯に充ちた工場で平気で働き、不用心な人は大地で躓いてすべって頭を割るのであろう。・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・つまり私が、わざわざ自分の病気をわるくして長引かしては密かに喜んだりする一種の精神病者に似た心理状態にあるという事を巧みに暗示すると云うよりはむしろ露骨に押しつけようというのであった。自分はQに云われる前から自分の頭の奥底にどこかこのような・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・事によると彼もさきが短くなった兆ではないかと密かに心配している友人もある。そのせいでもあるまいが、彼がこの頃年賀状の効能の一つとして挙げているのは、それが死んだ時の通知先名簿の代用になるという事である。実際彼の場合にはこれが非常に役立つに相・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・ある晩、寄席が休みであったことから考えると、月の晦日であったに相違ない。わたしは夕飯をすましてから唖々子を訪おうと九段の坂を燈明台の下あたりまで降りて行くと、下から大きなものを背負って息を切らして上って来る一人の男がある。電車の通らない頃の・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・ いくら二十にはなって居ても母親のそばで猫可愛がりにされつけて居たお君には、晦日におてっぱらいになるきっちりの金を、巧くやりくって行くだけの腕もなかったし、一体に、おぼこじみた女なので長い間、貧乏に馴れて、財布の外から中の金高を察しるほ・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ いずれもそろってめっかちで……ひげのおじさんはおねがいの叶ってしまうそれまでは眼玉は入れてやらぬと云う……それじゃあおじさんが死ぬるまでわしらはやっぱりめっかちだ、師走の晦日におじさんは古参の順に降させて・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・ 或る日、ナポレオンは侍医を密かに呼ぶと、古い太鼓の皮のように光沢の消えた腹を出した。侍医は彼の傍へ、恭謙な禿頭を近寄せて呟いた。「Trichophycia, Eczema, Marginatum.」 彼は頭を傾け変えるとボナパ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫