・・・ 尾世川と藍子とは、最後の鼠色の船が、先ず船首の端から明るみ、帆の裾、中頃ぐらい、段々遂に張った帆の端が真白になってしまう迄、瞳を凝し見守った。「……変だなあ……」 藍子が、眼をしぼしぼさせながら、若々しい驚きを面に現して云った・・・ 宮本百合子 「帆」
・・・下京の町を離れて、加茂川を横ぎったころからは、あたりがひっそりとして、ただ舳にさかれる水のささやきを聞くのみである。 夜舟で寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月を仰・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・浅瀬の波舳に触れて底なる石の相磨して声するようなり。道の傍には細流ありて、岸辺の蘆には皷子花からみつきたるが、時得顔にさきたり。その蔭には繊き腹濃きみどりいろにて羽漆の如き蜻とんぼうあまた飛びめぐりたるを見る。須坂にて昼餉食べて、乗りきたり・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫