・・・始めは、ただ毛布が丸めてあるんだと思ったが、例のジプシーが名まえを呼びはじめると、その毛布がむくむくと動いて、中から灰色の長い髯が出た。それから、眼の濁った赭ら面の老人が出た。そうして最後に、灰色の長く伸びた髪の毛が出た。しばらく僕たちを見・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・橋と正面に向き合う処に、くるくると渦を巻いて、坊主め、色も濃く赫と赤らんで見えるまで、躍り上がる勢いで、むくむく浮き上がった。 ああ、人間に恐れをなして、其処から、川筋を乗って海へ落ち行くよ、と思う、と違う。 しばらく同じ処に影を練・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 大空には、あたかもこの海の沖を通って、有磯海から親不知の浜を、五智の如来へ詣ずるという、泳ぐのに半身を波の上に顕して、列を造って行くとか聞く、海豚の群が、毒気を吐掛けたような入道雲の低いのが、むくむくと推並んで、動くともなしに、見てい・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・……いや、高砂の浦の想われるのに対しては、むしろ、むくむくとした松露であろう。 その景色の上を、追込まれの坊主が、鰭のごとく、キチキチと法衣の袖を煽って、「――こちゃただ飛魚といたそう――」「――まだそのつれを言うか――」「・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・……樹の枝じゃ無い、右のな、その崖の中腹ぐらいな処を、熊笹の上へむくむくと赤いものが湧いて出た。幾疋となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを胡乱つくように……皆猿だ。 丘の隅にゃ、荒れたが、それ山王の社がある。時々山奥から猿が出て来るとい・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・あらゆる偽善の虚栄心をくつがえして、心の底からおとよさんうれしの思いがむくむく頭を上げる。どう腹の中でこねかえしても、つまりおとよさんは憎くない。いよいよおとよさんがおれを思ってるに違いなけりゃ、どうせばよいか。まさかぬしある女を……おとよ・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・蝶子はむくむく女めいて、顔立ちも小ぢんまり整い、材木屋はさすがに炯眼だった。 日本橋の古着屋で半年余り辛抱が続いた。冬の朝、黒門市場への買出しに廻り道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいる・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・これと同時に、脚や足の甲がむくむくと浮腫みを増して来ました。そして、病人は肝臓がはれ出して痛むと言います。これは医師が早くから気にしていたことで、その肝臓が痛み出しては、いよいよこれでお仕舞だと思いましたが、注射をしてからは少し痛みが楽に成・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ただ溪間にむくむくと茂っている椎の樹が何回目かの発芽で黄な粉をまぶしたようになっていた。 そんな風景のうえを遊んでいた私の眼は、二つの溪をへだてた杉山の上から青空の透いて見えるほど淡い雲が絶えず湧いて来るのを見たとき、不知不識そのなかへ・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ 磯が火鉢の縁を忽々叩き初めるや布団がむくむく動いていたが、やがてお源が半分布団に巻纏って其処へ坐った。前が開て膝頭が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上せて顔を赤くして眼は涙に潤み、頻りに啜泣を為ている。「どうしたと云うのだ・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
出典:青空文庫