・・・日本の兵士は、寒気のために動作の敏活を失った。むくむくした毛皮の外套を豪猪のようにまんまるくなるまで着こまなければならない。左右の手袋は分厚く重く、紐をつけた財布のように頸から吊るしていなければならない。銃は、その手袋の指の間から蝋をなすり・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・ 今んとこはまったくやせ犬の見本みたいだが、二週間もたてばむくむくこえていい犬になる。おい、おれんとこにもいい犬がいたんだよ。そいつがにげ出して殺されたんだ。おまいは、かわりに、おれんとこの子になるか。なる? おお、よしよし。」 肉屋が・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・死んだつもりでいたのだが、この首筋ふとき北方の百姓は、何やらぶつぶつ言いながら、むくむく起きあがった。大笑いになった。百姓は、恥かしい思いをした。 百姓は、たいへんに困った。一時は、あわてて死んだふりなどしてみたが、すべていけないのであ・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・様様の色をしたひらたい岩で畳まれ、その片側の傾斜がゆるく流れて隣の小さくとがった峯へ伸び、もう一方の側の傾斜は、けわしい断崖をなしてその峯の中腹あたりにまで滑り落ち、それからまたふくらみがむくむく起って、ひろい丘になっている。断崖と丘の硲か・・・ 太宰治 「猿ヶ島」
・・・見給え、うんと力むと、ほら、むくむく実がふくらむ。も少し力むと、この実が、あからんで来るのだよ。ああ、すこし髪が乱れた。散髪したいな。」 クルミの苗。「僕は、孤独なんだ。大器晩成の自信があるんだ。早く毛虫に這いのぼられる程の・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・あるいはまた、粉々にくずれた煉瓦の堆積からむくむくと立派な建築が建ち上がったりする。 昔ある学者は、光の速度よりもはやい速度で地球から駆け出せば宇宙の歴史を逆さまにして見られるというような寝言を言った。しかしこのような超光速度はできない・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・やがて茎の頂上にむくむくと一つの団塊が盛り上がったと思うとまたたくまにその頭がばらばらに破れて数十の花弁が花火のように放散した。そして絶大な努力を仕遂げてあえいででもいるように波打っていた。そこで惜しいところで映画はふっと消滅してしまった。・・・ 寺田寅彦 「春六題」
・・・昨日までは擦れ合う身体から火花が出て、むくむくと血管を無理に越す熱き血が、汗を吹いて総身に煮浸み出はせぬかと感じた。東京はさほどに烈しい所である。この刺激の強い都を去って、突然と太古の京へ飛び下りた余は、あたかも三伏の日に照りつけられた焼石・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ふり返る、後は知らず、貫いて来た一筋道のほかは、東も西も茫々たる青草が波を打って幾段となく連なる後から、むくむくと黒い煙りが持ち上がってくる。噴火口こそ見えないが、煙りの出るのは、つい鼻の先である。 林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・私は今日ここへ参りがけに砲兵工厰の高い煙突から黒煙がむやみにむくむく立ち騰るのを見て一種の感を得ました。考えると煤煙などは俗なものであります。世の中に何が汚ないと云って石炭たきほどきたないものは滅多にない。そうして、あの黒いものはみんな金が・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
出典:青空文庫