・・・それから、見物の方を向くと、こう言いました。「これはわたくしのたった一人の孫でございます。わたくしは何処へ参るにも、これを連れて歩きましたが、もうきょうからわたくしは一人になってしまいました。 もうこの商売も廃めでございます。これか・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・勝手にしやがれと、そっぽを向くより致し方がない。しかし、コテコテと白粉をつけていても、ふと鼻の横の小さなホクロを見つけてみれば、やはり昔なつかしい古女房である。 たとえば、この間、大阪も到頭こんな姿になり果てたのかと、いやらしい想いをし・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・粋にもモダンにも向く肉感的な女であった。二 早くから両親を失い家をなくしてしまった私は、親戚の家を居候して歩いたり下宿やアパートを転々と変えたりして来たためか、天涯孤独の身が放浪に馴染み易く、毎夜の大阪の盛り場歩きもふと放浪・・・ 織田作之助 「世相」
・・・作家の中には無垢の子供と悪魔だけが棲んでおればいい。作家がへんに大人になれば、文学精神は彼をはなれてしまう。ことに海千山千の大人はいけない。舟橋聖一氏にはわるいが、この人の「左まんじ」という文芸春秋の小説は主人公の海千山千的な生き方が感じら・・・ 織田作之助 「文学的饒舌」
・・・顔を伏せている子守娘が今度こちらを向くときにはお化けのような顔になっているのじゃないかなど思うときがあった。――しかし待っていた為替はとうとう来た。自分は雪の積った道を久し振りで省線電車の方へ向った。 二 お茶の水か・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・と神崎の方を向く。神崎はただ「フフン」と笑ったばかり、盃をあげて、ちょっと中の模様を見て、ぐびり飲んだ。朝田もお構いなく、「現に今日も、斯うだ、僕が縁とは何ぞやとの問に何と答えたものだろうと聞くと、先生、この円と心得て」と畳の上に指先で・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・しかし一たん見まいと決心したからには意地が出て振り向くのが愧かしく、また振り向くと向かないのとで僕の美術家たり得るや否やの分かれ目のような気がして来た。 またこうも思った、見る見ないは別問題だ、てんであんな音が耳に入るようでそれが気にな・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・姦淫したる女を石にて打つにたうる無垢の人ありや? イエスがこの問いを提出するまで誰も自分の良心に対してかく問い得なかった。財の私的所有ならびに商業は倫理的に正しきものなりや? マルクスが問うてみせるまで、常人はそれほどにも自分らの禍福の根因・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ 脇へよけようと右を向くと、軍医が看護長に、小声で、「橇は、うまく云ってかえして呉れんか。」 そう云っているのが聞えた。彼は、軍医の顔をみつめた。そこに何か深い意味があるように感じた。軍医は、白い顔を傷病者の視線から避け、わざと・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・干瓢を剥くもいいが、手なぞを切って、危くて眼を放せすか。まあ、あれはそういうものだで、どうかして私ももっとあれの側に居て、自分で面倒を見てやりたいと思うわなし。ほんに、あれがなかったら――どうして、あなた、私も今日までこうして気を張って来ら・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫