・・・いくら押しても、叩いても、手の皮が摺り剥けるばかりです。 六 その内に部屋の中からは、誰かのわっと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたようです。遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・何小二が鞍の前輪へつっぷすが早いか、一声高く嘶いて、鼻づらを急に空へ向けると、忽ち敵味方のごったになった中をつきぬけて、満目の高粱畑をまっしぐらに走り出した。二三発、銃声が後から響いたように思われるが、それも彼の耳には、夢のようにしか聞えな・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・彼はそちらに背中を向けると、もう一度人ごみの中へ帰り出した。しかしまだ十歩と歩かないうちに、ふと赤革の手袋を一つ落していることを発見した。手袋は巻煙草に火をつける時、右の手ばかり脱いだのを持って歩いていたのだった。彼は後ろをふり返った。する・・・ 芥川竜之介 「寒さ」
・・・それが急に田口一等卒へ、機嫌の悪い顔を向けると、吐き出すようにこう命じた。「おい歩兵! この間牒はお前が掴まえて来たのだから、次手にお前が殺して来い。」 二十分の後、村の南端の路ばたには、この二人の支那人が、互に辮髪を結ばれたまま、・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・彼らはいわゆる社会運動家、社会学者の動く所には猜疑の眼を向ける。公けにそれをしないまでも、その心の奥にはかかる態度が動くようになっている。その動き方はまだ幽かだ。それゆえ世人一般はもとよりのこと、いちばん早くその事実に気づかねばならぬ学者思・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・ もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも勢のない、塗ったような瞳を流して、凝と見たが、「あれ。」と言いさま、ぐったりと膝を支いた。胸を衝と反らしながら、驚いた風をして、「どうして貴下。」 とひょいと立つと、・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 時に履物の音高く家に入来るものあるにぞ、お貞は少し慌だしく、急に其方を見向ける時、表の戸をがたりとあけて、濡手拭をぶら提げつつ、衝と入りたる少年あり。 お貞は見るより、「芳さんかえ。」「奥様、ただいま。」 と下駄を脱ぐ・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・ その時尉官は傲然として俯向けるお通を瞰下しつつ、「吾のいうことには、汝、きっと従うであろうな。」 此方は頭を低れたるまま、「いえ、お従わせなさらなければ不可ません。」 尉官は眉を動かしぬ。「ふむ。しかし通、吾を良人・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・ これを見た猟師は、どうして、鉄砲を向けることができましょう。彼は、気づかれないように後ずさりをしました。そして、また、くまを打たずに家へもどったのでありました。「ああ、暮らしのためといいながら、なんて殺生するのはいやな商売だろう。・・・ 小川未明 「猟師と薬屋の話」
・・・ すると、私の顔はだんだんにいまに苛められるだろうという継子の顔じみてきて、その顔を浜子に向けると、この若い継母はかなり継母じみてくるのでした。浜子は私めずらしさにももうそろそろ飽きてきた時だったのでしょう。夜、父が寄席へ出かけた留守中・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫