・・・いや、大阪弁だけではない、小説家は妙に会話の書き方を無視するが、会話が立派に書けなければ一人前の小説家ではない。無名の人たちの原稿を読んでも、文章だけは見よう見真似の模倣で達者に書けているが、会話になるとガタ落ちの紋切型になって失望させられ・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・「いや僕もけっしてその、経済関係を無視するとかそんな大それた気持からではないのだがね、またそれを無視するほどの元気な気持であれば、きっと僕にも何かできるだろうがね、何しろ今度はまったくどうしようもなかったのだよ」「どうしようもないか・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・この天然と生命との機微を無視するキリスト教的、人道主義は、簡単に、一夫一婦の厳守を強制するのみで、その無理に気がつかない。それは夫婦というものが、人間という生きもののかりのきめであることを忘れるからである。この天与の性的要求の自由性と、人間・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・この仏陀の金言を無視するは許されぬ。「法華経方便品」によれば、「十方仏上ノ中ニハ、唯一乗ノ法ノミアリテ、二モ無ク亦三モ無シ」とある。 仏陀の正法は法華経あるのみ。その他の既成の諸宗は不了義の権経にもとづく故に、ことごとく無得道である。・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・同様にしか持てなさないのは、彼にとっては、階級を無視して、より下に扱っていることだ。娘をメリケン兵に横取りされる危惧もそこから起ってくる。「何で、俺の肩章が分らんのだ! 何で俺のさげとる軍刀が分らんのだ!」 それが不思議だった。胸は・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・三郎はまた三郎で、画面の上に物の奥行きなぞを無視し、明快に明快にと進んで行っているほうで、きのう自分の描いたものをきょうは旧いとするほどの変わり方だが、あの子のように新しいものを求めて熱狂するような心もまた私自身の内に潜んでいないでもない。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・とあたかも一つの決心がついたかのごとく呟くが、しかし、何一つとしてうまい考えは無く、谷間の老人は馬に乗って威厳のある演説をしようとするが、馬は老人の意志を無視してどこまでも一直線に歩き、彼は演説をしながら心ならずも旅人の如く往還に出て、さら・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・大学を卒業して雑誌社に勤務するようになってからも同じ事で、大隅君は皆に敬遠せられ、意地の悪い二、三の同僚は、大隅君の博識を全く無視して、ほとんど筋肉労働に類した仕事などを押しつける始末なので、大隅君は憤然、職を辞した。大隅君は昔から、決して・・・ 太宰治 「佳日」
・・・こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと避けたがる。便利と安全を買うために自分を売る事を恐れるからである。こういう変わり者はどうかすると万人の見るものを見落としがちである代わりに、いかなる案内記にもかいてないいいものを掘り・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・ 口調がよくてもいい歌とは限らず、口調が悪くてもそのために却って妙味のある歌もあるかも知れないが、歌の音楽的要素を無視しない限り口調の研究は一般の歌人にも無駄な事ではないであろうと思う。 以上は口調というちょっとつかまえ処のないよう・・・ 寺田寅彦 「歌の口調」
出典:青空文庫